アニミズム
昨日のソンコ・マージュのコンサートで彼が、今の荒廃した自然(大地)・地球を救えるのは、アニミズムである、というようなことを話した。
アニミズム(Animism)といえば自然信仰とも言われるようだが、なにか原始的なもの、怪しげな信仰・風習のように感じるかもしれない。でも、日本には古来からあったのである。
森羅万象に精霊が宿っていると信じること、すなわちあらゆるところやもの(山、海、川、動物、植物から家、厠にいたるまで)に精霊(神さま)が宿って人々を守っていると考えていたのだ。
昔の年寄りは、ものを粗末にすると神様の罰が当たる、とか、悪いことをするとお天道様に申し訳ない、あるいはお天道様が見ているよ、とか言ったものである。これも、そんな考え方につながるのかもしれない。
「もったいない」(5/7)で、九十九神(つくもがみ)について書いたが、これも物(特に古い物)には霊魂が宿っているから大切に使わなければいけない、ということを教えるものだったらしい。
仏教の法華経に「非情成仏」という思想があって、これは非情無心の山川草木にも魂が宿っているという東洋独特の思想だという。
こんな考え方は西洋人には受け入れがたいだろうと思う。人間以外の動植物や自然などの、人間以外の存在に霊魂を認めないから、とてもじゃないが理解できない境地かもしれない。彼らにとって、自然は制圧するものであったのだろう。
昨日のコンサートのプログラムに、ソンコ・マージュが師ユパンキについて、こんなことを書いている。
「ユパンキは(風景)という言葉をよく使った。風景のなかで最も素晴らしいのは人間だとも言った。確かに人間は自然が創り出したもののうちでは傑作ではあろう。その自覚は大事である。しかし人間が自然のなかのひとりである自覚を忘れてはならない。だから人間が多くの自然を支配することは人間自身を支配するのに等しい行為だ。今や人間は尊い地球の生命を一瞬に奪うことすらできる。この人間世界に慄然とすべきだ。
ユパンキは偉大な芸術家である前に、人間を含む<自然への畏敬>を叫び続けた一人の人間でもあった。」
確かアフリカで医療活動を行ったシュバイツァー博士が、「生命への畏敬」ということを言っていたと思う。西洋人でも東洋人のような考え方をする人がいるのだ。
この自然(生命)への畏れと敬いということを忘れると、人は大地(地球)を破壊し尽くして、ついには人自身も滅ぼすかもしれない、なんてことを考えてしまう。
ソンコ・マージュのコンサートツアーのタイトルが「大地が泣いている」というのは、このことを訴えたいようである。
<後記>中学・高校とミッション・スクールに通っていたのですが、どうも一神教的な考え方にはなじめないできました。宗教に関することにはあまり言及はしないつもりですが、年を重ねるにつれて仏教とかアニミズム的な考え方に惹かれています。
ヨットとか登山とかやっていて、自然の恐ろしさを少しは知っているつもりですから、自然を侮ってはいけないと思うようになりました。自然を馬鹿にすると必ずしっぺい返しをくらうだろう、とも思っています。
それにしても、今の都市での生活はあまりにも自然から隔絶されていて、これでいいの? と思わずにはいられません……特に、子どもたちにとっては。
アニミズム(Animism)といえば自然信仰とも言われるようだが、なにか原始的なもの、怪しげな信仰・風習のように感じるかもしれない。でも、日本には古来からあったのである。
森羅万象に精霊が宿っていると信じること、すなわちあらゆるところやもの(山、海、川、動物、植物から家、厠にいたるまで)に精霊(神さま)が宿って人々を守っていると考えていたのだ。
昔の年寄りは、ものを粗末にすると神様の罰が当たる、とか、悪いことをするとお天道様に申し訳ない、あるいはお天道様が見ているよ、とか言ったものである。これも、そんな考え方につながるのかもしれない。
「もったいない」(5/7)で、九十九神(つくもがみ)について書いたが、これも物(特に古い物)には霊魂が宿っているから大切に使わなければいけない、ということを教えるものだったらしい。
仏教の法華経に「非情成仏」という思想があって、これは非情無心の山川草木にも魂が宿っているという東洋独特の思想だという。
こんな考え方は西洋人には受け入れがたいだろうと思う。人間以外の動植物や自然などの、人間以外の存在に霊魂を認めないから、とてもじゃないが理解できない境地かもしれない。彼らにとって、自然は制圧するものであったのだろう。
昨日のコンサートのプログラムに、ソンコ・マージュが師ユパンキについて、こんなことを書いている。
「ユパンキは(風景)という言葉をよく使った。風景のなかで最も素晴らしいのは人間だとも言った。確かに人間は自然が創り出したもののうちでは傑作ではあろう。その自覚は大事である。しかし人間が自然のなかのひとりである自覚を忘れてはならない。だから人間が多くの自然を支配することは人間自身を支配するのに等しい行為だ。今や人間は尊い地球の生命を一瞬に奪うことすらできる。この人間世界に慄然とすべきだ。
ユパンキは偉大な芸術家である前に、人間を含む<自然への畏敬>を叫び続けた一人の人間でもあった。」
確かアフリカで医療活動を行ったシュバイツァー博士が、「生命への畏敬」ということを言っていたと思う。西洋人でも東洋人のような考え方をする人がいるのだ。
この自然(生命)への畏れと敬いということを忘れると、人は大地(地球)を破壊し尽くして、ついには人自身も滅ぼすかもしれない、なんてことを考えてしまう。
ソンコ・マージュのコンサートツアーのタイトルが「大地が泣いている」というのは、このことを訴えたいようである。
<後記>中学・高校とミッション・スクールに通っていたのですが、どうも一神教的な考え方にはなじめないできました。宗教に関することにはあまり言及はしないつもりですが、年を重ねるにつれて仏教とかアニミズム的な考え方に惹かれています。
ヨットとか登山とかやっていて、自然の恐ろしさを少しは知っているつもりですから、自然を侮ってはいけないと思うようになりました。自然を馬鹿にすると必ずしっぺい返しをくらうだろう、とも思っています。
それにしても、今の都市での生活はあまりにも自然から隔絶されていて、これでいいの? と思わずにはいられません……特に、子どもたちにとっては。
この記事へのコメント
ソンコ・マージュの話では、アンデスのインディオの音楽は自分たちで作った葦の笛や太鼓で演奏することが多く、ギターなどは贅沢品らしい。そして演奏する時は足元の地面を見つめながらするそうです。これは、大地への感謝の気持ちかららしいのです。大地と言っても自然と言ってもいいのでしょうが、それへの感謝の気持ちが必要ということでしょうね。
子や孫やそのまた子どもたちのために、地球を守っていかなければいけないんでしょうね。クールビズもその糸口として定着すればいいんですが……
さすがyu_mamaさんが いいコメント残されてますが 何より遊哉さんの 今回の記事が素晴らしい!ひとつひとつ頷けます。私も 今まで宗教についていろいろ考えてきたのですが、何故か唯一神にもうひとつ気持ちがそぐわなかったのは それだったと 今 わかったような気がしました。ありがとうございました。
宗教の話は難しいところがあるのですが、唯一絶対の神を信じるというのはちょっと恐い感じがするのです。異教徒を排斥する傾向が強いですからね。自爆テロなんていうことができるのも、その一つの表れかもしれません。
日本人が持っていたアニミズム的考え方を、今だからこそ見直してみる価値があると思っています。
最近命って、なんだろう?なんて考えちゃいました。えへへ・・・
3年前にお袋が亡くなって、死というものがより身近になりました。いろいろ大変でしょうが、時には死とか命について考えてみるのもいいと思います。ブログ読んでますよ。
「信仰」とは「鰯の頭も信心から」と言われる如くその根拠うんぬんではなく兎に角信ずることから始まるもので、けっこう原始的なものでありますよ~! 例えばキリスト教・ユダヤ教・・・・等々の一神教がそれです。原始仏教はインド哲学であり宇宙・自然の真理を考察した物です。今日の日本に於ける仏教の宗派というものは必ずしも本来の姿を留めているとは言えません。平安時代に日本で創り上げられた経典も在るようですし、日本人のお得意芸、我田引水的な様々な(或る意味自由自在・てきとうな)解釈を経て宗派を立てております。その一つの解釈・価値観=価値基準を絶対的に受け容れて、それに自分の判断を隷属させる事を信仰というのではないですか?
アニミズムでは戦争出来ないけど、信仰でなら戦争が出来る。世界史はそれを如実に語っているではありませんか。
吾が息子達には無信仰を説き続けます。
by poko
昔からある宗教は、多かれ少なかれ元のものからは変質しているんじゃないでしょうか。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、元は同じところから出ていると聞いたこともあります。キリスト教でも仏教と同じように、いろんな宗派があります。特にプロテスタントでは。
それを信じたければ信じればいいし、信じたくなければ信じなければいいのです。仏教に惹かれるのは、一神教ではないからです。絶対の神なんぞというものを信じると、今のイラク戦争のようなことが起こりがちなような気がします。心に余裕がなくなるような気がします。
私は無神論者と言ってもいいし、無信仰だとも思っています。ただ、子どもにそれを説こうとは思いません。それは、子どもが決めればいいと思っています。