遺す言葉
劇作家で演出家、作家でもあった つか こうへい さんが10日に62歳で亡くなった。
同じ団塊の世代としては、早すぎた死でまことに残念である。
本名は金峰雄(キム・ボンウン)という在日韓国人2世である。
人の弱さや哀しさなどの負の感情・複雑な思いを知っている方だったと思う。それを、滑稽で哀切な笑いに変えて、われわれに見せたり読ませてくれた。反権力と弱者の視点を貫いた人でもあったと思う。
1月に肺がんの闘病中であることを公表したが、1月1日付けで遺書を書き、4月上旬にマネージャーに「死んだら開けるように」と手渡していたという。
次のようなものである。
<友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。
思えば恥の多い人生でございました。
先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。
私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。
しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。
2010年1月1日 つかこうへい>
つかこうへいさんらしい、まことに潔(いさぎよ)い遺言である。この世で思い切り仕事をし、生きること、生きたことがすべてであった、ということだろうか。自分の死は、自分だけで完結する、ということでもありそうである。
ところで、以前の記事で白洲次郎さんの遺言書というのを紹介したことがある。次のような簡潔なものだ。
<遺言書
一、 葬式無用
一、 戒名不用>
二人の遺言を読んで、いろいろ考えさせられることがある。
ちょっと書いてみる。
葬式というのは、残された者のためにするものだと思っている。嘆き悲しんでばかりいては、残された者はまともに生きてはいけない。死んだ者を偲び悲しむことによって、その死を納得するために必要な儀式ともいえる。
だから、「葬式無用」と遺言されても、残された者は自分の信じる宗教に則って葬式をしてもいいし、遺言を尊重して葬式をしなくてもいいと思う。
戒名についても、同じように考えればいいと思う。まあ、戒名というのは生前に自分でつけておくもの、という説もあるのだが。
白洲さんの遺言には、墓が無用、あるいは不用とはないから、墓はあるのだろう。それに対して、つかさんの遺言にはそれもいらないとある。
バカ親父が遺言をするとすれば、つかさんと同じようにしたい、と思っていたのだが、実は最近はちょっと違う(^^ゞ。
というか、つかさんと同じような遺書にしたいのだが、残された娘たちにとってはどうなんだろう、と考えてしまうからである。
葬式もしないで戒名もつくらないほうがお金もかからないし、面倒もないからいいようにも思うのだが、散骨というのは現在の日本では意外と面倒そうである。
今、バカ親父が考えているのは、葬式は娘たちの自由に、やるとしたら無宗教の家族葬で、戒名は要らない、墓は親父やお袋が入っている墓があるからとりあえずそこに入れてもらい、何年かしたら墓もなくして共同墓地に入れてもらえばいい、というところである。
嫁に行った、あるいはこれから行くだろう娘たちにとってはそれが一番気楽だろう。孫のチビりんの世代になったら、墓参りにも来なくなるだろうから、そのあたりが妥当だろう。と思っているのである。
人が死ぬにあたっては、遺す言葉なんて別に必要がないといえばないのだろうが、やはり何か遺しておきたくなるものなのかもしれない。
辞世(死に際に残す詩歌など)なんていうものもある。カッコよく逝くために、辞世の句か和歌でも、今から考えておこうかなあ(^^ゞ。
<後記>辞世もいいですが、おかしなものを遺したら笑いものになるだけですね。なかなか難しいものがありそうです(~_~)。
以前に、これも紹介したことがありますが、高杉晋作の辞世は、
おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけり
だそうです。心の持ちようひとつで、詰まらない人生も面白くできる、ということでしょうか。
こんなカッコいい言葉を、遺して逝きたいものです(~_~)。
昨日はとても風が強かったですが、夕方の散歩ではわりときれいな落日が見られました。いろんな雲が出て、夕日に映えていました。
今朝の散歩に出るときは激しい雨が降っていましたが、公園に着くと日が射し始めました。
いつもの遊び相手のワンコがまったくいなくて、SORAはあちこちうろついていました(^^ゞ。
今週末には梅雨明けになるかもしれませんが、今日は曇りときどき雨というところのようです。
大雨になっているところもあるようなので、お気をつけください。
同じ団塊の世代としては、早すぎた死でまことに残念である。
本名は金峰雄(キム・ボンウン)という在日韓国人2世である。
人の弱さや哀しさなどの負の感情・複雑な思いを知っている方だったと思う。それを、滑稽で哀切な笑いに変えて、われわれに見せたり読ませてくれた。反権力と弱者の視点を貫いた人でもあったと思う。
1月に肺がんの闘病中であることを公表したが、1月1日付けで遺書を書き、4月上旬にマネージャーに「死んだら開けるように」と手渡していたという。
次のようなものである。
<友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。
思えば恥の多い人生でございました。
先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。
私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。
しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。
2010年1月1日 つかこうへい>
つかこうへいさんらしい、まことに潔(いさぎよ)い遺言である。この世で思い切り仕事をし、生きること、生きたことがすべてであった、ということだろうか。自分の死は、自分だけで完結する、ということでもありそうである。
ところで、以前の記事で白洲次郎さんの遺言書というのを紹介したことがある。次のような簡潔なものだ。
<遺言書
一、 葬式無用
一、 戒名不用>
二人の遺言を読んで、いろいろ考えさせられることがある。
ちょっと書いてみる。
葬式というのは、残された者のためにするものだと思っている。嘆き悲しんでばかりいては、残された者はまともに生きてはいけない。死んだ者を偲び悲しむことによって、その死を納得するために必要な儀式ともいえる。
だから、「葬式無用」と遺言されても、残された者は自分の信じる宗教に則って葬式をしてもいいし、遺言を尊重して葬式をしなくてもいいと思う。
戒名についても、同じように考えればいいと思う。まあ、戒名というのは生前に自分でつけておくもの、という説もあるのだが。
白洲さんの遺言には、墓が無用、あるいは不用とはないから、墓はあるのだろう。それに対して、つかさんの遺言にはそれもいらないとある。
バカ親父が遺言をするとすれば、つかさんと同じようにしたい、と思っていたのだが、実は最近はちょっと違う(^^ゞ。
というか、つかさんと同じような遺書にしたいのだが、残された娘たちにとってはどうなんだろう、と考えてしまうからである。
葬式もしないで戒名もつくらないほうがお金もかからないし、面倒もないからいいようにも思うのだが、散骨というのは現在の日本では意外と面倒そうである。
今、バカ親父が考えているのは、葬式は娘たちの自由に、やるとしたら無宗教の家族葬で、戒名は要らない、墓は親父やお袋が入っている墓があるからとりあえずそこに入れてもらい、何年かしたら墓もなくして共同墓地に入れてもらえばいい、というところである。
嫁に行った、あるいはこれから行くだろう娘たちにとってはそれが一番気楽だろう。孫のチビりんの世代になったら、墓参りにも来なくなるだろうから、そのあたりが妥当だろう。と思っているのである。
人が死ぬにあたっては、遺す言葉なんて別に必要がないといえばないのだろうが、やはり何か遺しておきたくなるものなのかもしれない。
辞世(死に際に残す詩歌など)なんていうものもある。カッコよく逝くために、辞世の句か和歌でも、今から考えておこうかなあ(^^ゞ。
<後記>辞世もいいですが、おかしなものを遺したら笑いものになるだけですね。なかなか難しいものがありそうです(~_~)。
以前に、これも紹介したことがありますが、高杉晋作の辞世は、
おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけり
だそうです。心の持ちようひとつで、詰まらない人生も面白くできる、ということでしょうか。
こんなカッコいい言葉を、遺して逝きたいものです(~_~)。
昨日はとても風が強かったですが、夕方の散歩ではわりときれいな落日が見られました。いろんな雲が出て、夕日に映えていました。
今朝の散歩に出るときは激しい雨が降っていましたが、公園に着くと日が射し始めました。
いつもの遊び相手のワンコがまったくいなくて、SORAはあちこちうろついていました(^^ゞ。
今週末には梅雨明けになるかもしれませんが、今日は曇りときどき雨というところのようです。
大雨になっているところもあるようなので、お気をつけください。
この記事へのコメント
でも、どんな風に終焉を迎えるかですね。
そのせいか、いつまでも、ぽつりぽつりと「後から知った」と訪ねてくださる方がいますが、さまざまな思い出話をゆっくりと聞くことも供養のような気がします。
残されたものが、随分、救われた父の終わり方でしたが、簡潔が目的なのではなく心の残す像のあり方が大事なんだと思いました。
相次いで亡くなり残念です。
山藤章二さんの似顔絵に出てくるような
個性的な人間がだんだん少なくなって
きましたね。
親父の葬儀も家族葬でやりましたが、なかなかいいものです。仕事をしていたり商売をしていると、なかなかそうはいかないこともあるでしょうが、一つの選択肢としては考えておいてもいいんじゃないでしょうか。
いつ、どんな風に終焉を迎えるかは、誰にもわかりませんね。わかったら嫌ですが(^^ゞ。まあ、だからこそ、死んだ後のことは考えておく必要があるのかもしれません。
家族葬というのは、義理を欠く部分があるかもしれませんが、ほんとうに故人を偲びたい方は後から訪ねてくれると思います。そこで思い出話をすることは、供養になるでしょうね。それが残された家族にとっても、慰めになると思います。
つかこうへいさんや白洲次郎さんの簡潔な遺書には、潔さを感じました。それがまた、その人を偲ばせるものにもなっていると思います。
“心の残す像のあり方”は生きている間のその方の生き方が、残された者に残してくれるもののような気がします。それが残す言葉に表すことができれば、最高なんですけどね。なかなか難しそうです(^^ゞ。
うつから、ほぼ回復した今、何をするか。
今、どうしたいのか。どうすべきなのか。
どう、力をいれるのか? ぬくのか?
ゆるやかに考えられることを目指しながら、.....
いろいろ...の毎日です。
二人とも、人間をよく見てよく考えて、とらえた人だと思います。
山藤章二さんの似顔絵に、二人ともよく描かれていましたね。イケメンは次々に出てきますが、個性的な面構えの人間が少なくなってますね。残念です。
生きていくといろんなことがあると思いますが、試行錯誤でいいんじゃないでしょうか。あまり頭での考えだけが先行しないほうがよさそうです。まずは、生活すること、生きていくことが大事で、そのなかでそれに合わせて考えていったほうがよさそうです(^^ゞ。ゆるやかに考えるというのが必要でしょうね(~_~)。
夕暮れの空綺麗ですね!・・何時見ても厭きません。
沈んでしまった余韻何時までも眺めていたいです。
個人個人の生死(しょうじ)の想いでしょうね。
スリランカに旅した時・・1人で旅されていた方が、
スリランカの海に「妻の散骨に来ました」・・と。
小乗仏教に感心が有ったのでスリランカを・・・と。
葬儀式は無常を教わり滅多に遇えない仏縁に遇うためと私は思っています。
戒名とは言わないのですが、法名故人に対して贈られる名前と誤解されることも多いですが、生きている間仏弟子として生きていくことを誓い授かる名でだと教わっていますので、私は20年以上も前にいただきました。全く高額ではありません。
葬儀についてのことは、私が先の場合のみ、言い残しています(笑)
私もまだ、そこまでは手が回らないかなあ。っていうか、遊哉さんと同じく、残された人たちで気のすむようにしてもらったらいいと思います。
大きな木の根元とかに植えてもらったら、環境にもいいし墓標の代わりにもなるし・・・まあ、好きにして、って感じです(笑)
昨日の落日は、夕焼けはそれほどでもありませんでしたが、いろんな雲が出てきれいでした。見飽きません。ブログトップに、もう少し大きい写真がありますので、よかったら見てください(^^ゞ。
そうですね、家族で誰かが亡くなれば残った家族の生死の想いで対処すればいいと思います。亡くなった方の遺書でどうしてほしいということが書いてあれば、あるいは生前に言っていれば、それを尊重すればいいんだと思います。
友達の葬儀に出たり、家族の葬儀をすると死というものを実感として感じます。人間は死ぬものだということも身に沁みます。それが無常を教わるということでしょうか。普段は会えない親戚や友人にも会えますね。それが仏縁ということでしょうか。なるほどです。
戒名(法名)は“生きている間仏弟子として生きていくことを誓い授かる名”ですか。それなら生きているうちにつけてもらわなきゃいけませんよね。死んでからでは遅すぎますね(^^ゞ。そういう意味があるんですね。納得です。
同時に、バカ親父のような葬式仏教徒には必要ない、ということになりますね(^^ゞ。
アハハ、やろいさんが先の場合のみ、葬儀について言い残されてるんですか。ご主人は責任が重いかもしれません(~_~)。
残されて人たちで気の済むようにしてもらえばいいんですが、自分の希望があればちゃんと言い残しておいたほうがいいかもしれません。はじめて父母を送るということになると、訳がわからずに葬儀社のいいなりに無駄な出費をすることにもなりかねません。言い残しておけば、故人の意思だからということで、言い逃れができていいかもしれません(^^ゞ。
死んだら自然に還るのが一番いいですよね。散骨もだいぶ多くなってきているから、キーブーさんが亡くなるころには、しやすくなっているんじゃないでしょうか(~_~)。まあ、骨になっちゃえば何もわからないから、好きにしてもらえばいいんですけどね(^^ゞ。
葬式はできるだけ簡単にと思いますが・・子供たちの考えやメンツもあるかと思うので、まあ好きにやってくれ・・・文句は云わないよ・・というよりもすでに言えない状態ですから・・・(笑)
人工衛星の墓というわけです。
じっさいに、もう何千人分もの骨のはいたカプセルが地球を回っているそうで・・・
スペースデブリ(宇宙ゴミ)になるという意見もありますが、30年後には注に落ちてきて燃え尽きるそうです。
1人分100万円だそうで、地上での葬式より安いかと・・・・(^^ゞ
葬式は簡素でいいから、気持ちのこもったものにしてほしいですね。とはいえ、子どもの社会的な立場もあるから、なかなかそうはいかないこともあると思います。まあ、死んだ者は、死んじゃったら文句の言いようもないですけどね(^^ゞ。生きている人間の方が大事ですしね(~_~)。
いつかこうへいに・・そして 字をよめない
お母さんのために ひらがなにした・・
亡くなってから、 知りました。
蒲田は 夫の実家の近くで・・ 初めて駅を降りて・・
ここがあの 「蒲田行進曲」と思ったこと
思い出しました。
宇宙ゴミになるのは困りますが、30年後に大気圏に落ちてきて燃え尽きるというのならいいと思います(^^ゞ。
日本での葬式の平均は200万円をちょっと超えるくらいだったと思います。100万円で宇宙遊泳できるなら、安いかもしれませんね(~_~)。
神道のお葬式に出た時、本名で祝詞を上げられ、神主さんがその人の実親の名を言い、本人の人生を語られ、子は何人位ですが(それもマイクで)初めて知った人はざわめいてましたが、、。後は榊を手向けましたが、。お墓は普通でしたが。本名も良いなと思いました。
SORAちゃんの気ままさが可愛い。たまには原っぱを独り占めですね、、。
なるほど、「つかこうへい」というひらがなの名前は、字を読めないお母さんのためでしたか。人の弱さや哀しさを知っていて、それを表現できる方だったんでしょうね。
蒲田がご主人のご実家の近くでしたか。うちのカミさんの実家があるところでもあります(^^ゞ。JRの蒲田駅の発車メロディーは、あの「蒲田行進曲」が流れています(~_~)。
神道のお葬式というのは出席したことがありませんが、本名で最後までいくんですね。仏教でも、火葬前後で変化したような覚えがあります。キリスト教の葬儀は花を手向けて、簡素でいいものでした。カトリックとプロテスタントでもいろいろ違いがありそうですが。
まあ、信じる宗教があるなら、それに則ってやるのがいいでしょうね。
アハハ、SORAは気ままです。それがいいところですね(^^ゞ。雨が降ると、公園にはほとんどワンコたちが来ません。SORAの独り占めです(^^♪。
でもあまりに無宗教では人の心の分からない、無慈悲な人が増えてしまうのではないでしょうか。
やはり生活の中で日本人に伝統的に受け継がれてきた神仏といいますか、土着の信仰に触れるのは悪いことではないですよ。娘さん、お孫さんの心の潤いになると思います。
私は20代ですが、数年前に父親の死を経験しました。そんな時、信仰は私の心に水を与えてくれました。通夜、葬儀、法事と色々ありましたが、それらがあったから父がどんな人だったのか、ゆっくり思い出し、分かることができました。
今、とても幸せです。
家族って宝物です。お金とか、面倒だから、とかでは割り切れない部分もあるんです。
葬式仏教じゃないです。結婚式を仏式でするカップルているんですよ。私もできれば仏式でしたいと希望を持っています。
人は人を支え、また支えられながら生きています。皆さんのおかげさまで今日があります。
お孫さんとお散歩している時に、小さな神社や仏様を見つけたら、是非、手を合わせてみてはいかがですか?
長文、乱文、失礼致しました。
もし書くことがあったら、辞書を引き引き書きましょうね。そして見直しましょう(^^♪。
ただ、なにも信じている宗教のないバカ親父のような者が、葬式や結婚式のときだけ仏式でやるのはちょっとおかしいんじゃないかと思ってしまいます。宗教に対する冒涜かもしれません。お袋や親父の葬式は仏式でやりましたが、それは二人が仏教を信じていたからです。
バカ親父は無宗教だから、死んだ時は無宗教でいいと思っています。宗教の儀式に則らなくても、故人を思い出し理解することはできると思います。大切なのは宗教に関係なく「祈る」ということでしょうか。前々回の記事で墓参りに行ったときのことを書いていますが、孫には手を合わさせてます(^^ゞ。神社やお寺に行っても同じです。
(つづく)
宗教というのは、特に一神教は怖いところもあって、原理主義的になると宗教戦争も起こります。宗教を信じていても、無慈悲なことをする人は多いものです。無宗教でも、人の心はわかるし優しい人がたくさんいますよ。
家族は宝物ですから、その一員が亡くなれば、宗教に関係なく自然と祈りが出てくるもののような気がします。
中学・高校とミッションスクールにいたから、キリスト教も多少は勉強しましたが、一神教というものには馴染めませんでした。一神教よりは仏教のような多神教に惹かれますが、それよりも惹かれるのは、アメリカ・インディアンのようなアニミズムです。昔の日本もそうだと思いますが、物にはみな精霊が宿るというような考え方です。人の霊魂は信じていませんが(^^ゞ。
どうも、バカ親父は、一つの宗教にとらわれるのが嫌いなようです。自由でいるのがいいんでしょうね(~_~)。こんな人間もいるということを知っておいてください。
あどさんは、「お願い」をしっかり遺言状に書いて、それに従うように常々話してるんですね。バカ親父も「お願い」を書いておくことにします(^^♪。
うちは娘二人だから、嫁にいっちゃえばうちのお墓を守るというわけにはいかなくなると思っています。そういうこともあって、われわれ夫婦が二人とも逝ったら、共同墓地へでも入れてくれればいいと思うわけです。娘たちは、介護と葬式費用だけは残しておいてくれ、なんて言ってます(~_~)。
地域によっても違うでしょうが、昔のようにお墓を守るという考え方はなくなってきてるでしょうね。
先のことはどうなるかわかりませんが、わからないからこそ、一度はご主人と話してみるのもいいかもしれませんね(^^ゞ。