「最後だとわかっていたなら」
17日の朝日新聞(夕刊)に、ある詩が載っていた。
この詩の原詩は、米国の9.11以降にネットで世界中に広まったものである。
作者は、ノーマ・コーネット・マレックという方で、10歳で溺死した長男のことを偲んで書いたものだという。
その内容が、突然に家族を失った人たちの気持ちに訴えるものがあったのだ。
昨年の大震災で家族や親戚や友などを失った方たちにも、それは同じだったということである。
次のような詩である。
最後だとわかっていたなら
(作/ノーマ・コーネット・マレック
訳/佐川睦 サンクチュアリ出版)
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい…「あなたを愛している」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑(ほほえ)みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
なんとも切ない詩である。
人がいつ最後(最期)を迎えるかは誰もわからない。
それでも、その突然の死を迎えることがあらかじめわかっていたら、その人との別れがわかっていたら……いろんなことをしてやれたのに……というのは、できないことだとわかっているからこそ、哀しいし切ない。
だからいつも、愛する人のいつ来るかわからない最後のことを心に留めて、愛する人を大切にしよう、ということになるのだろう。
突然愛する人を失って、後悔しないためにも。
とてもよくわかる詩である。誰だって、もし突然に家族など愛する人を失ったら、そう思うだろうと思う。
でも、なんだかすんなりとは受け容れられないような気もするのである。
この詩のような想いを、あまり考えすぎるとその人は罪悪感にさいなまれそうである。
あまり突き詰めて考えると神経衰弱になりそうでもある。
親だったら子どものことが心配で心配で、一時も目を離すことができなくなる人も出てきそうである。
それはあまりにも考えすぎだとい言われそうだが……(^^ゞ。
それよりももっとクールに、死は突然訪れるものだから、“最後だとわかっていたなら”などと思うことはない。
自分自身だって突然死が訪れて、突然家族の目の前から消えるのだから、愛するものとはいつかは別れの時が来る、と覚悟を決めておいた方がいいような気がする。
だからこそ、普段から愛する人を大切にしよう、とこの詩は言っているのだろうが……
詩の最後の“ 「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう”などは、ごく普通の礼儀である。
“最後だとわかっていたなら”などとことさら思わなくても、言うべき言葉である、とも思う。
愛する人とは、ごく普通に接していけばいいのではないのだろうか。
<後記>もし、愛する人と大喧嘩をして、その翌日にその人が突然亡くなったら後悔するかもしれませんが、それも仕方ないことですよねえ(^^ゞ。
日常の生活では愛する人と喧嘩をすることも仲良くすることも、いろんなことがあると思います。
子どもだって、いつかは親から自立していくから、遠くから見守るしかないこともあるでしょう。年がら年中かかわっていることはできません。
人はそれぞれの生を送り、それぞれの死を迎えるものだということを改めて覚悟していくほかはないのではないか、という気がします。
夕方の散歩で見つけた山茶花です。灰色の夕景には、とても鮮やかでした。
今日の夕景と夕空です。まさに寒空でした。
いつもの公園で会ったワンコたちです。
このゴールデンドゥードゥルはとてもかわいい子です。訓練士さんがついて訓練されているので、飼い主さんの言うことをちゃんとよく聞きます。
待て! と言ってボールを投げても、よし! というまで取りにいきません。
SORAだったら、あっという間に飛び出していくと思います(^^ゞ。
出来が違うでしょうね(~_~)。
明日は出かけることになっているのに、関東地方は雪が降るかもしれません。
関東の南では芝生が薄っすら白くなる程度らしいですが、寒くなりそうだから、ちょっとうんざりです(^^ゞ。
この詩の原詩は、米国の9.11以降にネットで世界中に広まったものである。
作者は、ノーマ・コーネット・マレックという方で、10歳で溺死した長男のことを偲んで書いたものだという。
その内容が、突然に家族を失った人たちの気持ちに訴えるものがあったのだ。
昨年の大震災で家族や親戚や友などを失った方たちにも、それは同じだったということである。
次のような詩である。
最後だとわかっていたなら
(作/ノーマ・コーネット・マレック
訳/佐川睦 サンクチュアリ出版)
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい…「あなたを愛している」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑(ほほえ)みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
なんとも切ない詩である。
人がいつ最後(最期)を迎えるかは誰もわからない。
それでも、その突然の死を迎えることがあらかじめわかっていたら、その人との別れがわかっていたら……いろんなことをしてやれたのに……というのは、できないことだとわかっているからこそ、哀しいし切ない。
だからいつも、愛する人のいつ来るかわからない最後のことを心に留めて、愛する人を大切にしよう、ということになるのだろう。
突然愛する人を失って、後悔しないためにも。
とてもよくわかる詩である。誰だって、もし突然に家族など愛する人を失ったら、そう思うだろうと思う。
でも、なんだかすんなりとは受け容れられないような気もするのである。
この詩のような想いを、あまり考えすぎるとその人は罪悪感にさいなまれそうである。
あまり突き詰めて考えると神経衰弱になりそうでもある。
親だったら子どものことが心配で心配で、一時も目を離すことができなくなる人も出てきそうである。
それはあまりにも考えすぎだとい言われそうだが……(^^ゞ。
それよりももっとクールに、死は突然訪れるものだから、“最後だとわかっていたなら”などと思うことはない。
自分自身だって突然死が訪れて、突然家族の目の前から消えるのだから、愛するものとはいつかは別れの時が来る、と覚悟を決めておいた方がいいような気がする。
だからこそ、普段から愛する人を大切にしよう、とこの詩は言っているのだろうが……
詩の最後の“ 「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう”などは、ごく普通の礼儀である。
“最後だとわかっていたなら”などとことさら思わなくても、言うべき言葉である、とも思う。
愛する人とは、ごく普通に接していけばいいのではないのだろうか。
<後記>もし、愛する人と大喧嘩をして、その翌日にその人が突然亡くなったら後悔するかもしれませんが、それも仕方ないことですよねえ(^^ゞ。
日常の生活では愛する人と喧嘩をすることも仲良くすることも、いろんなことがあると思います。
子どもだって、いつかは親から自立していくから、遠くから見守るしかないこともあるでしょう。年がら年中かかわっていることはできません。
人はそれぞれの生を送り、それぞれの死を迎えるものだということを改めて覚悟していくほかはないのではないか、という気がします。
夕方の散歩で見つけた山茶花です。灰色の夕景には、とても鮮やかでした。
今日の夕景と夕空です。まさに寒空でした。
いつもの公園で会ったワンコたちです。
このゴールデンドゥードゥルはとてもかわいい子です。訓練士さんがついて訓練されているので、飼い主さんの言うことをちゃんとよく聞きます。
待て! と言ってボールを投げても、よし! というまで取りにいきません。
SORAだったら、あっという間に飛び出していくと思います(^^ゞ。
出来が違うでしょうね(~_~)。
明日は出かけることになっているのに、関東地方は雪が降るかもしれません。
関東の南では芝生が薄っすら白くなる程度らしいですが、寒くなりそうだから、ちょっとうんざりです(^^ゞ。


この記事へのコメント
日本人の死生感には、ちょっと合わないかも・・・共感はしますけどね。
いま、雨が降ってます。雪に変わるのでしょうか?
いつも気持玉をいただきありがとうございます。
わたしも朝日新聞の記事、読みました。
子どもを失った方が書かれた詩ですよね。
夕ご飯を食べながら、
号泣してしまいました。。。
で、嫁さんや子供たちを愛おしく思いました。
記事、捨てずにおいてあります。
どんなに愛する人とでも、突然の別れは来る時には来るし、どうしようもない事も、世の中にはたくさんある。
全ては、時間よって薄められていく。人は忘れる事によって救われる事も多いと思います。
私も、遊哉さんのご意見に賛成です。死は誰にでも訪れるのだから、達観して(できればの話ですけど 笑)日々を精いっぱい誠実に生きていった方がいいですよね。
でも、子どもに死なれてすぐは、きっとこんなことばかり考えるんだろうなあ。想像するだけでまた苦しくなってきました(~_~;)
西欧人は、キリスト教の“原罪”というようなものが気持ちの底にあるから、同じことに対しても日本人とは感じるものが微妙に違うんだと思います。
今日は寒かったですね。実は今日はディズニーシーに行ったんですが、一時霙が降りました。凍え死ぬかと思いました(~_~)。
朝日新聞の記事を読みましたか。子どもを失った親なら当然ですが、この詩を読んで子どもを失うことを想像するだけで堪らない気持ちになりますね。
家族は愛おしいものというのは、洋の東西を問わないとは思いますが、そのとらえ方はいろいろなものがありそうです。
家族を失った時も、たぶんとらえ方が微妙に違うんじゃないかな、と思います。
家族を失うということは悲しいことで、特にそれが災害や事故でとなると、あまりに突然のことで気持ちの持っていきようがなくなるものだと思います。でも、どうしようもないことなんですね。自分が生き残ったことでの罪悪感などは持ってほしくないと思っています。愛する人との別れはいつかはくることと、それを受け容れることも大切だと思ってます。
そうですね、時間によってその悲しみは薄められていくと思います。それは別に悪いことではないし、そうでなければ生きていくことは辛すぎるんじゃないでしょうか。時間が心の傷を癒してくれる、とも言えると思います。
子どもを亡くした親も何人か見ているし知っています。実はうちの両親もそうだし(バカ親父の弟が亡くなっています)、友達にもいます。その悲しみは筆舌に尽くしがたいものがあります。そういう親を見ているからこそ、できればこのブログに書いたような達観(?)的な気持ちをもってほしいと思っています。簡単なことでないのは、よくわかってはいるんですけどね(^^ゞ。
一期一会という言葉がありますが、親子でも家族でもそれは一緒でしょうね。この世で家族になったことを大切に日々を過ごすことが大事だし、もし家族を失ってもめげずに生きていくことが大事だと思っています。
震災などで、家族を失い残された人たちにも逞しく生きていってほしいです。
彼女は子供にあれもしてあげたかった、これもしてあげていない、等の気持ちから罪悪感に苛まれたでしょうし子供を思って神経衰弱にもなったでしょう。漠然とは永遠の別れを覚悟していても、たった10歳の元気な子が突然いなくなったら当然の出来事と受け入れるのは母親なら無理な話です。 そんな悲しみや苦しみから立ち直ろうとする気持ちや、他の人に同じ思いをしてほしくないと願う作者の気持ちが痛いほど伝わってきます。
私には自分の死は覚悟できても子供の死は長い闘病生活でもしない限り覚悟はできないですね。
震災などで子どもでも家族でもいいですが、亡くした方は自分だけが生き残ったことに罪悪感をもつと聞いたことがありますが、そんな罪悪感はもつ必要はないと思ってます。
この詩の作者も神経衰弱になったかもしれませんが、“子供にあれもしてあげたかった、これもしてあげていない、等の気持ちから罪悪感に苛まれ”る必要はないと思っています。
うまく言えませんが、人はいつかは死ぬものです。それが突然かあるいは長い介護の果てであっても、同じく死ぬものです。その死ぬということについては、従容として受け容れた方がいいのではないか、という気持ちです。
うちのお袋は心臓麻痺で突然亡くなりましたが、親父の方はある程度の介護期間を経て亡くなりました。やはりショック度は違うものがありましたが、死ぬということでは一緒です。
自分自身のことも含めて、家族が死ぬということについても、死というものは避けられないものだということを自覚(覚悟)しておいた方がいい、ということを言いたいんです。
うずらさんのコメントの、すぐ上のバカ親父のコメントもできたら一度読んでみてください(^^ゞ。
ニュースで、デイズニーシーにも雪が降りましたとやっているのを見て『そういえば遊哉さん。デイズニーシーへチビりんちゃんと行くとか書いていたけど・・・まさか今日じゃあないよな?』と思いながら赤いポンチョの親子連れが歩いているのを見てました。
寒かったでしょう?風邪をひきませんように。
今日はゆっくり休んでください。(*^。^*)
娘たちがやっと取った休暇だったので、日にちを変えるわけにもいかず決行しましたが、寒かったです(^^ゞ。
でも、みんなでワイワイできて楽しかったです(~_~)。もっと空いているかと思いましたが、意外と混んでました(~_~)。
なんとか風邪も引いていないようです。昨日のことを記事にしたいと思っていますが、今日は友達が遊びに来るので、アップは夜になるかもしれません(^^ゞ。
子供を亡くすことの
大きなショックは
耐え切れないでしょうね。
子供を 亡くして アルチュウに
成った人を 知ってますが
多分デリケートな心の持ち主でしょう、
今夫や子供 や孫たちに、悔いの無い
言葉や心で 接したいと 思いました。
アル中になるような方もいるでしょうね。今日遊びに来た悪友夫婦は長男を中学の時に事故で亡くしました。その時の奥さんの嘆き悲しみは見るに忍びないものでした。今は二人とも元気にやっています。
震災などで子どもや家族を亡くした方々も、力強く自分の人生を生きていってほしいです。
縁があって家族になっても、いつかは別れの時が来ます。だからこそ、それを自覚した上で、いつその別れが来てもいいように“今夫や子供 や孫たちに、悔いの無い言葉や心で 接したい”という気持ちが大事でしょうね。
でも、いつか別れは来ますからね。ご家族を大切にしているでしょうが、より大切に!(^^ゞ。
そして詩にする事で変わってゆくこともあります。作者にとって自分の立っている場所を知るよすがにもなっているのかな、とも思いますが…私もまた、罪悪感とは違う方向へ向く人間なので、この詩は他者の心として穏やかに受けとめたいと思います。
こんなにお利巧~。躾ができてる~。ということなんでしょうか?
SORAちゃんの自然な楽しい姿の方がいいな。^-^-
雪国のスキー場やゴルフ場では、雪の中をすきに走りまわさせるところができて人気になっているそうです。
今回の記事を拝見してからしばらく
考えてしまいました。
遊哉さんの後記も、皆様のコメントも
うなずけるものばかりです。
親より先に子供が逝くということほど
不幸な出来事はきっとないでしょうね。
いろいろ考えながらも、この詩のように
親より先に逝く子供のことを悲しく思う
のはごく当たり前なのでしょうね。
以前、とっても大きな事件でお子さまを
無くされたお母様が
「30歳を過ぎたのだから早くお嫁に
いきなさい・・・とばかり言っていました。
・・・もう、手の届かないことろに逝って
しまいました。・・・
・・・そして、それでも私はお腹が空くの
ですね・・・。」と、言っていた言葉が
今も時折思い出してしまいます。
人間は儚く悲しいものですが、きっと
逞しくもあり、生きていくものなんでしょうね。
私も、とっても辛いときでもお腹が空く自分
に涙したことがあります。
きっと、どんなに愛情に溢れた接し方をして
いても不幸な出来事に、親は自分を責め後悔
するものなんでしょうね。
良い記事をありがとうございました!
その“罪悪感と向き合う”ということについては、物事を闘いつつ勝ち取ろうとする西欧人の生き方の裏返しのような気がします。狩猟民族的な考え方かもしれません。キリスト教の原罪をもつ人間という考え方が元にあるのかもしれません。強くなければなかなかもてない感じ方なのかもしれませんが、そんなこの詩に秘められた強さに、多くの人が惹かれるんでしょうね。
ただ日本人にとっては、罪悪感を持つというのはちょっと辛すぎるような気がします。でも、親というのは子どもを亡くせば、やっぱり罪悪感をもっちゃうんでしょうけどね。
こういう詩を書くことによって変わっていくことはあると思います。“自分の立っている場所を知るよすがにも”なるんでしょう。自分の悲しさや辛さ、あるいは罪悪感を吐き出すことが必要なんでしょうね。大震災でも、子どもを失った親や親を失った子どもたちに、そんな気持ちを吐き出していってほしいと思います。
“この詩は他者の心として穏やかに受けとめたい”という気持ちが素直で一番いいんでしょうね。素直にそう思えないバカ親父は、やはりへそ曲がりの偏屈者のようです(^^ゞ。
SORAのように普段はいい子なのに、時には暴走犬になるような犬が好きです(~_~)。
ただ、大型犬の場合は、やはり躾をしておかないと、犬にとっても飼い主にとっても、周りの人間にとってもとても危険なことがあるので、必要だとも思います。飼い主がしっかり制御できないと、捨て犬が増えるということにもなりかねません。程度問題ですけどね(^^ゞ。
雪の中で思い切り犬を駆け回らせたいです。そういうところがあるといいですね。人気になっているというのがよくわかります(~_~)。
人は年の順に逝くのが、一番いいでしょうね。子どもを先に亡くすというのは、親にとっては不幸過ぎますね。
この詩の作者のように、子どもが生きているうちにしてやれなかったことで罪悪感をもつというのも、とてもよくわかります。でも罪悪感をもってしまうということは、ちょっと悲しすぎるようにも思ってしまいます。
大震災で子どもを失った方が、悲しみのどん底にいるのに、それでもお腹が空くしトイレにも行くと言ってました。人はそんな悲しみの中でも生きていくものだし、生きていかなければならないものなんだと思います。子どもが死んで、自分が生き残ってしまったという罪悪感のようなものを感じながらもです。辛いでしょうね。
親にとって子どもは何事にも代えられないかわいいものだし、愛情を注ぐのは当然でしょうね。でもいつかは別れの時が来ます。それを心に留めながらも、愛情に溢れた接し方をしながらも、時にはクールに突き放したり、遠くから見守ったりすることも必要だと思っています。普通は親が先に逝くから、子どもを一人でも生きていけるように自立させることが親の仕事だと思うからです。
それでも、子どもが先に逝ってしまうことはあるでしょうね。その時に親は自分を責め後悔するかもしれませんが、生きていればそういうこともあるんだと知っていること[自覚(覚悟)していること]も必要じゃないかと思っています。生きていればそんなこともあるし、生きていくということはそういうことなんじゃないかとも思っています。
こんな記事で、みなさんに家族のこと、子どものこと、親のことや、その接し方、あるいは生きるということについて改めて考えてもらえれば嬉しい、と思っています(^^ゞ。
書かれた記事、同感ですね。
いやおうなく、身近な人たちとのお別れに日々向き 合う生活になりましたので。
ただ心配しているだけでは、前向きに生きれません ので気をつけるようにします。
ありがとうございました。
歳とともにいろんな人との別れを経験していきますね。決して慣れることはありませんが、人は生まれそして死ぬものだということが、実感としてわかるようになってきました。
人が亡くなり別れなければならないことは悲しいですが、それがまた生きているということかもしれません。
あの世があれば、また会えるでしょうし、ないとしてもそれはそれで良いと思います。
今を生きることが大事でしょうね。いつも前向きで生きたいですね(~_~)。
遊哉さんの仰る事はその通りです。死は必ず訪れる、いつかは誰にもわからない、罪悪感を持つ必要がない、残された者は強く逞しく生きる、等々。でもそれは頭で解っていること、心は違うし、納得できる相手と出来ない相手がいると思います。この作者のように幼い子供を突然亡くしたら納得できません。そんな心が傷ついているときにこれらの当たり前のことを言って欲しくないのです。死について達観していても悲しみは半減しません。慰めも励ましもいらない。ましてや批判などされたくない。慰めも励ましも上から見られている気がする。ただ気持ちを分かってほしい、立ち直るまで見守ってほしい。罪悪感を持つことは自分を見つめる、相手を見つめる、そして立ち直るための一つのプロセスなのです。それを必要ないと切り捨ててほしくない。嘆いている、考え抜いている自分をそのまま受け入れてほしい。作者と同じ立場だったら私はそう思うのです。
我慢すること、諦めることに全く美徳を感じない西欧人的考え方と言われるかも知れませんね。
最初のコメントに書いたように、この詩の作者のような気持ちも受け容れます。それに、それを批判するつもりもありません。身近にこういう人がいたら、ただただ話を聞くと思います。
子どもが亡くなったときに、それに対処していく方法はいろいろあると思います。“罪悪感を持つことは自分を見つめる、相手を見つめる、そして立ち直るための一つのプロセス”なんだと思います。同じように、人は死ぬものだという達観というか諦めを持つことも、自分を見つめ、相手を見つめ、そして立ち直るための一つのプロセスなんだと思います。
どちらが良いか悪いかなどと言う積もりもありません。
いずれにしろ、子どもを亡くした親にはできるだけ早く立ち直ってほしい、という気持ちでこんなことを書いたつもりです。
日本人には仏教的な達観というか諦めの気持ちのほうが合うような気がしています。バカ親父がそう思うだけかもしれませんけどね(^^ゞ。
大切な人がもし明日いなくなったら・・・
この曲は そんな悲しさと・・だからこそ
今を生きることの大切さを・・・考えさせてくれます。。。
秀香さんが唄ってあるこの曲 1年前に
知りました♪
2番目の孫が生まれそうです((+_+))
9.11ををきっかけに生まれた曲としては、
ミリオンヒットとなった「千の風になって」がありますし、
再三話題にしている
すぎもとまさとや秋元順子のアラカン世代の活躍もあって、
楽曲の魅力+歌い手の人生経験の魅力も感じる
秀香「最後だとわかっていたなら」にも注目したいと思います。
一度だけの人生、いつ終わるかわからないから、今を大事にしたいです。
2番目のお孫さんが生まれそうですか。羨ましい(^^ゞ。無事に生まれることを祈ってます(~_~)。
「千の風になって」は9.11がきっかけなんですか。知りませんでした。どうも歌のことはよくわかりません(^^ゞ。
歌は歌詞や曲だけでなく、歌手の魅力もあるでしょうね。歳とともに味のある歌い手がたくさん出てきてくれると嬉しいですね。
この秀香さんの歌もなかなかのものだと思います(~_~)。