団塊バカ親父の散歩話

アクセスカウンタ

zoom RSS 『半分生きて、半分死んでいる』

<<   作成日時 : 2018/03/07 23:31   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 73 / トラックバック 0 / コメント 2




画像

                 〔次女が撮った原っぱのSORA〕


 養老孟司さんの時評集『半分生きて、半分死んでいる』を紹介してみる。
 月刊誌『Voice』に2015年から2018年にかけて連載したものに、総論をつけ加えてまとめられたものである。
 
 その時々の社会の諸相や事件などに触れながら、養老さんの現在の「半分生きて、半分死んでいる」ような宙ぶらりんの立場から、縦横無尽に考えや想いを書き綴っている本である。
 これが諧謔に満ち満ちていて、面白いのである(^^ゞ。

 目次から内容を紹介しておく。

 まえがき
第一章 どん底に落ちたら、掘れ
 ローカルがグローバルになる/煮詰まっている現代人/人文字で何を教えるか/禁煙主義者として/永遠の杜/発展祈り業/虫採りと解剖の共通点/人工知能の時代に考える/虫と核弾頭
第二章 社会脳と非社会脳の相克
 地方消滅の対策は参勤交代/社会脳が不祥事を起こす/止むを得ない/持続可能社会/環境問題の誤解/人生から反応を差し引いたら/一般化が不幸を生む/人口が減る社会/わかりやすい世界
第三章 口だけで大臣をやっているから、口だけで首になる
 ブータンの歯磨き粉/大阪都構想投票 なぜ五分五分だったか/言葉で世界は動かない/状況依存/米軍の「誤爆」/イスラム国を生んだもの/デジタル社会のアナログ人間/EU離脱とトランプ
第四章 半分生きて、半分死んでいる
 殺しのライセンス/意識をもつことの前提/公が消える時代/俺の戦争は終わっていない/葬儀屋の挨拶/老人が暮らしにくい世の中/半分死んでいる/地味な仕事への対価/年寄りと子ども/コンピュータとは、拭けば飛ぶようなもの
第五章 「平成」を振り返る
 いまだに煮詰まっていないものは何か/日本は文化国家ではない/バブル時代の書評番組の報酬/オウム真理教からハリー・ポッターへ/信じる方がバカ/何を復興というべきか/気候変動と虫
総論――あとがきに代えて
 就職状況は売り手市場らしいが/自分の好きなことにどう向きあうか/現代社会から「外れている」人に注目する理由/現代の問題は一般論としての人生と、個々の人生の乖離/「人は何のために生きるのか」
 初出一覧


 何か所か引用・紹介してみる。(長いので、適当に読んでください(^^ゞ)
 まずは本のタイトルになったエピソードから。

 半分死んでいる

<先月の土曜日に久しぶりに東京農業大学に行った。ここには昆虫学研究室があるので、たまに勉強に行く。一服しようと思って屋外の喫煙場所に向かったら、学生が寄ってきて「養老さんじゃないですか、生きてたんですか、もう死んだと思ってました」という。いくら若者でも、それじゃあ少しひどいと思ったのか、「もう歴史上の人物ですよ」と付け加えてくれましたね。
 要するにそういうことなのである。本人はまだ元気で頑張っているつもりかもしれないけれど、実情はすでに死亡済み。そう思えば気楽なもので、先行き世界がどうなろうと、私の知ったことじゃない。真面目な論考がいくつも出ている雑誌の巻頭でこんなことを言っては申し訳ないが、読者のなかにもすでに死亡済みの人はきっとおられるに違いない。
(後略)>


 煮詰まっている現代人

<(前略)
 頭の中はすぐに煮詰まる。意識は煮詰まるものなのである。なにしろ脳は平均一三五〇g、その中をいくら走り回ったところで、高が知れている。その中身を訂正してくれるのは外界である。その外界は感覚を通して捉えるしかない。現代人がそれをいかに嫌うか。生活を見ればわかる。部屋は冷暖房、照明は人工、トイレは水洗、オフィス・ビルにいれば環境がいっさい変化しない。風も吹かなきゃ、お日さまの動きもない。見ているものといえばスマホ、テレビ、パソコンの画面。目の前で光がチラチラしているだけ。
 いちばん煮詰まった感じがするのは、人口減少と高齢化であろう。意識的にはよくわからない理由で人が減る。誰が号令をかけたというわけでもないのに、ひたすら減り続ける。無意識に煮詰まったことがわかっているから、ヒトが減るんだろうなあ。アメリカではとうの昔に西部がなくなった。西部劇すらない。月に行ってみたものの、開墾して月で暮らせるわけもない。もともとヒトは地球の生態系の一部である。お腹のなかには一〇〇兆の細菌が棲んでいる。地球の生態系からヒトだけ千切れて飛んで行っても意味がない。宇宙を考えるなら、自分を地球の一部分として見なくてはいけない。その意味では環境なんてない。自分と環境のあいだに切れ目はないからである。
 そう思えば、べつに煮詰まったわけでもないかもしれない。もともとこうだったのに、意識があれこれ目移りしていただけのこと。あらためて脚下照顧(きゃっかしょうこ)ということか。>


 人文学で何を教えるか

<(前略)
 国立大学の人文・社会学は縮小したほうがいい。文部科学省がそういう通達を出したらしい。その言い分がわからないわけではない。弱小の私立大学を見てみればわかる。人文系の学科に学生が集まらない。うっかりすると定員割れになる。そもそも就職先がない。つまり世間がそういう学問の必要性をあまり感じていない。ところがとくに古い、つまり伝統のある大学では、学科や学部は祖先の墓みたいなもので、なかなか潰せない。いらないんだから、削ったら。文科省はそう勧めたのであろう。
 それをいうなら、いちばんいらないのは文科省かもしれない。(中略)
 私が現役のころ、学部長がすべて出席する入試の会議で、工学部長が立ち上がっていったことがある。「国語をなんとかしてくれ」。国語なんて、入試から外せ。工学部長なんだから、そういったのだろうと思われるかもしれない。物理と数学ができれば十分だ。そうではない。東大の入試を通って入ってくる理科系の学生の国語力が低すぎる、普通の文章もちゃんと書けない。そういう趣旨の発言だったのである。
 学科を縮小しようが拡大しようが、そんなことはじつはどうでもいい。問題は当該の学問に従事する人たちのやる気であろう。(中略)
 そもそも人文・社会学系の学科で「何を教える」のか。日本の大学で教えないものがある。それは考える方法である。それをいうと、すぐに「それは哲学でしょう」といわれてしまう。縦割りの弊害ですなあ。言葉を使って考える。それが人文・社会学の基本のはずである。それを学生に叩き込んでいない。だから卒業しても役に立たない。
 いまの学生に「やり方」を教えるのは難しい。受け取るほうがすぐにそれをノウハウ、マニュアルだと思ってしまうからである。まして「考え方」などというと、なんだそりゃ、と思うに違いない。教育を受けていないんだから、それで当然であろう。歴史学、法学、経済学などというと、「それについて勉強するんだ」と頭から信じている。
 私は時に解剖学者を自称する。自宅で解剖をしているわけではない。解剖という学問なんて「ない」。ゆえに解剖学者もない。解剖はあくまでも方法である。方法が身に付けば、比喩的には日本経済だって永田町だって解剖できるのである。
 たぶん哲学科の中に、歴史も法学も経済学も含めていいのであろう。哲学自身を学ぶことを哲学だと思っているから、哲学なんかいらない、といわれてしまう。一文にもならないじゃないか。でも、ソクラテスはアテネの民衆から死刑を宣告された。哲学はそこまで社会的な力があるのだが、いまでは哲学者自体がそう思っていないであろう。死刑になってはたまらないからね。>


 禁煙主義者として

<厚労省によれば、間接喫煙によって死亡する人の総数は年に一万五〇〇〇人と推定される。交通事故による死亡者の三倍だという。
 現代の科学は大したものである。タバコを吸っている本人よりも、周囲の人に大害があることが、はっきり示された。しかも死ぬ人の人数まで明確となった。いずれは誰が間接喫煙の犠牲者か、個人の特定ができる時代が来るかもしれない。私は専門家ではないから、どういう調査をした結果なのか、それは知らない。しかし厚労省関係の発表だから、国がお金をかけ、専門家がきちんと調査した結果に違いあるまい。それに対して個人が異論を唱えることなど、到底できない。個人にはそれだけのお金も暇もない。
 こうした結果が出せるということは、その裏にタバコは健康に有害だという固い信念があるはずである。喫煙の害については、ほとんどの人に異論はあるまい。その信念のもとに、公共のお金を使い、誠心誠意の調査がなされたのだと信ずる。科学上の真理といえども、強い信念によって裏付けられなければ、人々の役に立つような立派な成果は生まれない。その典型的な事例といえよう。
(中略)
 タバコのように有害無益なものを、政府は放置している。それどころか、高いタバコ税を取る。そのため喫煙者は、自分たちは高い税金を払っているのだからと称し、厚顔にも人前でタバコを吸う。厚労省も政府のうちだと思うが、なぜタバコを禁止するように提案しないのか。タバコは麻薬と同じで習慣性があり、人は習慣性のあるものに対して弱い。他に習慣性のあるものといえば、古来からある飲酒、読書、賭け事などにとどまらず、現在ではメール、ケータイ、フェイスブック、ライン、ゲームなど、さまざまなものが挙げられる。厚労省はこうした行為についても、健康上の問題を精査し、もし有害と見なされれば、国策として取り締まりを強化すべきであろう。
 近年は分煙が進んだ。あちこちに喫煙所が設けられ、喫煙者はそこでタバコを吸う。狭い空間に大勢の人が入るため、喫煙所の中は火事場のように煙がもうもうと立ち込めている。あの人たちは自分で吸うだけではなく、他の喫煙者の煙をイヤというほど吸い込んでいるはずだから、間接喫煙の常習者であろう。したがってこの状況を続けるなら、間接喫煙により、多くの喫煙者はやがて間違いなく死亡すると思われる。今回の調査結果を踏まえ、あえてタバコを禁止するより、現在のような形で喫煙者をどんどん殺してしまったほうが、根本的解決としては早道ではないか。厚労省の本音はそのあたりか、と愚考する。
 私は禁煙主義者で、ゆえに日に数十回、禁煙している。タバコを止(や)める快感というのがあって、それに引きずられてしまうらしい。それでもまだ足りないのか、最近は禁煙の回数がされに増えたような気がする。禁煙にも習慣性があり、いったん始めると、やめられなくなる傾向がある。念のためだが、とりあえずタバコを吸わないと、禁煙はできない。迂闊(うかつ)な話だが、喫煙だけではなく、禁煙にも習慣性があるとは気が付かなかった。それで国際禁煙週間というものができて、毎年行事が行なわれるのであろう。国際的にも禁煙は習慣化したのである。>


 虫採りと解剖の共通点

<(前略)
 虫は自然物である。ヒトの身体も自然物である。それを観察して、簡単には見えないときには、まさに「解剖する」。それでどうするのかって、概念化する。あれは神経、これは血管。虫なら鞘翅目(しょうしもく)、ゾウムシ科、ヒゲボソゾウムシ属、コブヒゲボソゾウムシの雄。ここには二つの行為がある。一つは自然の概念化、もう一つはそれに伴う命名である。全体を表現するなら、自然物の理性的認識、とでもいうべきであろう。その意味では、虫だろうが、人体だろうが、同じことである。
(中略)
 日本の学問は扱う対象で分類される。ヒトなら人体解剖学、虫なら昆虫学。だから全然違うでしょ、ということになる。でも自然物を観察して、さらに解剖つまり分析して、概念化して、命名する作業だと見れば、両者は「まったく同じこと」である。それがなぜ違う学問と見なされるかというと、世間のせいというしかない。学問を対象で分類するというやり方に固執するからである。
 自然物を認識するというと、「それで何がわかりますか」と認識の内容を訊く人がある。認識は内容ではない。行為である。もっというなら、生き方である。世界をどう見るか、それで生き方が違ってくる。これを哲学と呼ぶ人もある。英国の昆虫学者でもあったミリアム・ロスチャイルドに、自然史とは何ですか、と尋ねたことがある。「それは大学で教える科目のようなものではない。生き方 way of life ですよ」。
 そういう答えが返ってきた。私も当時のロスチャイルドと同じくらいの年齢になった。そのせいかどうか、同じ答えをするようになったらしい。>


 止むを得ない

<(前略)止むを得なかったんだから、じつは勝とうが負けようが、本当は俺のせいじゃない。日本の場合だとそういう言い訳が初めから用意されている。意地悪く考えれば、そういうことになる。
 こういういわば社会的な習慣は、むろん一長一短である。主体が存在して、その主体が選択をするというのは、政治なら早い話が独裁である。だから民主制を採用して、大統領を選挙する。独裁が続くと、あれこれ具合が悪いからであろう。四年に一度、お祭り騒ぎをして、今回はドナルド・トランプなんて変な人が出てきた。あれでいいのかなあ、と傍目(はため)には思うけれど、あれが「選択」社会なのであろう。気に入らなけりゃ、選ばなきゃいいのである。
 日本の民主制だと、暗黙の全員一致である。だから「俺は聞いてない」というのが、最大の反論になる。文句をいう機会がなかった。原則は全員一致だから、日本人は規則をよく守る。でもじつは全員一致になっていないと、面従腹背になる。それが多数を占めると、原則のほうが自然に壊れる。憲法第九条がギリギリのところに来てますかなあ。これで中国が尖閣を「占領」してくれると、安倍さんには神風だろうが、憲法改正はまだ「止むを得ない」までは来ていないみたいである。
「止むを得ない」社会の難点は、ギリギリのところまで「待ってしまう」ことである。少子高齢化や年金の問題なんて、以前からわかっていて、いまでもわかっている。原発の問題も明らかである。でもまだギリギリに来ていないから、なんとか時を過ごす。そのうち自分の寿命が来てしまうから、こういう大きな問題はとりあえずやり過ごしておく。これも知恵というなら、一種の知恵であろう。待てば海路の日和、そのうち自然に答えが出るさ、というわけ。
(後略)>


 環境問題の誤解

<(前略)
 環境問題というけれど、じつは人間自身、自分の問題である。環境とは「自分を取り巻くもの」と定義される。ホラ、環境といった途端に「自分は別だ」と、どこかで思ってしまうでしょ。だから私は、最近は環境という言葉を使わない。田んぼからとれた米を食べれば、それは自分の体になる。それなら田んぼは自分。魚を食べれば、海は自分。自分のこととして考えたら、他人の虫採りなんかを規制する前に、「環境」に対して、いくらでも寄与することがあろう。環境問題がおかしくなるのは、「環境」という「自分は別」という文化を、「自分」なんてそもそもなかった社会に持ち込んだのが根本だと思う。まずは脚下照顧(きゃっかしょうこ)というしかない。


 一般化が不幸を生む

<地域の難しさは特異性にある。それぞれに違っているから、一般論がやりにくい。ところが現代社会は一般論で成り立っている。たとえば一億総活躍がいい例であろう。みんなが活躍すればいい。それはいいけれど、それぞれがどう活躍すればいいのか。各論に入った途端に、話がバラバラになってしまう。
(中略)
 現代社会は合理的で、便利で、豊かである。じゃあ人々は幸せかというと、なんだか不幸らしい。なにより子どもが増えない。こんな状況では、子どもなんて、産んでいられないよ。子どもだって、将来にわたって幸福な人生を送るとは思えない。べつにそれほど気持ちが暗くなっているわけではないが、気分の基底は明より暗らしい。
 怠けちゃいけませんなあ。私はそう思う。冗談じゃない、毎日必死で働いているよ。それなのに社会がこうなることについては、どこか基本に問題があるはずである。そういうときには常識を疑うしかない。本当に社会は合理的、効率的、経済的でいいのか。それだけを考えて、他の可能性は考えない。それは楽をしていることになる。まったく違う面なんて、考えたくないという態度だからである。それは意識的思考において、易きについていることになる。その結果が現代なんですなあ。>


 わかりやすい世界

<(前略)
 血圧がわかれば、それに応じて手当てをする。問題は私ではない。血圧である。これは銀行の身分証明と同じ。話が突然でわからなくなった人もいるであろう。行きつけの銀行で、ある種の手続きをしようと思ったら、「先生、身分証明をお持ちではないですか」と訊かれた。普通は運転免許証なのだが、私は車の運転はしないので免許証はない。「健康保険証でもいいんですが」という。病院じゃないよ、銀行に来たんだよ。そう言いたくなったが、面倒くさい。「ない」と一言。「困りましたねえ、わかってるんですけどねえ」という。銀行員は私本人だと知っているのである。
 そこで卒然として理解した。銀行というシステムのなかの私は、運転免許証であり、健康保険証なのである。いまならマイナンバーでいい。じゃあ、現物の私とは何か。ノイズ、つまり雑音の集合体である。そういう雑音を混ぜると、コンピュータが困る。データが多くなってムダ。データが多すぎると、機械が故障する可能性もある。
 それでわかることがある。若い人たちが、会社のなかでもメールでやりとりをする。あれは本人という「ノイズの塊」を排除しているのであろう。SNSの画面に出ているものが同僚であり上役なのであって、人という、当の現物はノイズの集合体にほかならない。そんなものは消す。だから結婚もしないのかもしれない。結婚相手の現物なんて、ノイズだらけで、情報処理が困難である。ちゃんとノイズを処理済みにしてから来てくださいね。
 そう思えば、わかりやすい世界になった。現物は不潔、猥雑(わいざつ)、訳がわからない。そういう存在は、ないほうがいい。それでコンピュータが人に取って代わり、世界を支配する、という幻想が生じるのであろう。そういう世界を懸命に構築しているのは、ほかならぬ自分だ。医者にしても銀行員にしても、そうは思っていない。
 受験生を点数だけで測る世界で長らく生きてきた。辞めて正解でしたね。世界を数字で測ればわかりやすい。だからといって、世界自体がわかりやすくなったわけではない。ジュール・ルナールは「人が変わる」と言った。でもそれには続きがある。「でも、バカさ加減は変わらない」。社会も同じ。本人は進歩しているつもりらしいんですけどね。>


 状況依存

<(前略)
 私見だから、乱暴をいわせてもらう。日本の本土防衛はそもそも盤石(ばんじゃく)である。なぜなら最終兵器を沿岸に五〇余り、並べているからである。こんな国は世界のどこにもない。福島原発の事故が起きたあと、一週間以内に五〇〇〇人の中国人が新潟空港から帰国したと聞いた。アメリカ艦隊が近海まで来たが、放射能の危険を感じて、間もなく消えた。国土が占領される危険があるなら、この最終兵器を順次使えばいい。だれも日本に近寄りもしなくなるであろう。
 自分も損害を受けるではないか。当たり前であろう。自分が損害を受けず、相手だけにダメージを与える。そんな甘い戦争はない。大日本帝国は中国と八年間戦った。その間、中国は本土決戦だった。日本は硫黄島と沖縄で手を上げた。どちらの考えが甘いか、よく考えたらいい。念のためだがヴェトナムはアメリカに勝った。前回も言葉について書いた。言葉や法律が国を守るのではない。国民の腹である。イラク派遣だけで自殺者が三〇人近く出る軍が、外地でどれだけ本当に働けるのか。神風特別攻撃隊を銃後で送り出した世代の老人だから思う。もう一度「本気で」防衛を考えていただきたいなあ、と。>


 意識をもつことの前提

<意識という機能の大きな役割の一つは「ああすれば、こうなる」である。ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる。
(中略)
 その意識という働きは、どの程度に信用が置けるのか。われわれは毎日、一定時間意識を失う。夜になると寝るからである。寝ているあいだは、ああするもこうするもない。では、意識を失おうと決心して寝るのか。否、いつの間にか寝ている。つまり意識の喪失に意識自体は関与していない。目が覚めるときも、勝手に目が覚める。意識がひとりでに戻ってくる。つまり意識という働きは、意識とは別のものが管理している。
 そんな他動的なものが、なんと意志だとか、決意だとか、あれこれいう。精神一到、何事かならざらん。意識はそういう。精神一到では眠れない。目が覚める。じゃあ徹底して起きていられるかというと、いつの間にか寝てしまう。いったい意識とは主人なのか従僕なのか。
 実情から見れば意識はあなた任せ、つまり従僕だが、意識自体はそう思っていない。自分が主人公だと思っている。だから実の主人のことは思いもしない。じゃあ、誰が主人なのだ。体に決まっている。体の都合で目が覚め、体の都合で寝る。ところがその体を、意識は自分の思うようにしたいと思う。なにしろ「主人」なんですからね。だから健康志向になり、サプリメントを摂り、ジョギングをし、ダイエットに励み、禁煙し、そのくせ家でもオフィスでも、体は動かさずにじっとしている。意識がはっきりしているあいだは、体が余計なことをしては困る。そう思っているからであろう。そのぶん運動不足になって、やがて糖尿病になる。
 その意識が「ああすれば、こうなる」という。本当に、いつまでこれをやってんだろ。その伝で人生を語るなら「生きていれば死ぬ」のである。こういうと、「じゃあ、どう考えればいいんですか」と来る。禅の教えがよくわかるではないか。どう考えたっていいのですよ。どうせ頭の中なんですからね。只管打坐(しかんたざ)、じっと座っていればいい。外から見れば、考えているのと同じ。将棋では「下手の考え休むに似たり」というではないか。
(後略)>


 さて、他にもたくさんあるのだが、あまりにも長くなってしまった。
 興味のある方は、是非この本をお読みいただきたい(^^ゞ。


<今日のお薦め本>
『半分生きて、半分死んでる』 養老孟司 著、PHP新書、929円、18.03.01. 第一版第一刷

半分生きて、半分死んでいる (PHP新書)
PHP研究所
養老 孟司

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 半分生きて、半分死んでいる (PHP新書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


<後記>皮肉とユーモアが混じり合っていて面白いのですが、なかなか深い内容になっていると思います。
 意識が支配しすぎている現代社会の諸相や経済などの諸問題をバッサリと斬っています。今生きる人は、これからどう生きていったらいいのかを考えさせられます。
 「禁煙主義者として」なんかは皮肉が満ち満ちていて、なんとも愉快でした。現在のファッショ的な禁煙主義のヘンテコさを面白おかしく皮肉っています。
 養老さんもバカ親父もタバコを喫いますが、禁煙主義者でもあります(^^)/。

 今日(7日)は午前中は陽が射すこともありましたが、午後からは曇ってしまいました。
 夕方の散歩は5時ころに出ましたが、空はどんよりとした雲に覆われていました。
 写真を撮ろうと思ったら、カメラを忘れていました(^^)/。
 ますますボケが進んでいます(^^ゞ。
 ということで、最初の写真もそうですが、次女がこの前来たとき撮った写真をもう一枚。

画像

 SORAとウッディの接近遭遇です。炬燵の側で、SORAはカミさんの足の間で寝ていて、ウッディは次女の膝の上です。
 ウッディがSORAの足の裏を嗅いだら、SORAが「ウウー」と唸ったそうです(^^ゞ。

 明日(8日)は朝方からパラパラと雨が降り出して、しだいに本降りの雨になり一日続くようです。気温が上がらず寒そうです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 73
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い
かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい
驚いた 驚いた 驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
一般的に人が「動物」と言う時は、人間以外の動物のことを示しているもんですが、「学術的には人間も動物です」と示されて、一瞬思考が止まる、ないしは、言葉に詰まるに似た感じがします。
「解剖学」という分析法は、あまりにも正論なんですが、良くも悪しくも人間の歩みを止めてしまう可能性があって、時々思考停止させられます。
これを越えて、新たな道が開けるなら、それが一番素晴らしいのでしょうけれど。
人は「このままでいいんじゃないのぉ」と抵抗、摩擦を避けて楽な方に行きたがる。
以前、養老さんのベストセラー本を読んだことがあります。解剖されたものを自分の中で分析し組み立てていくことが途中で出来なくなり、途中棄権したことがあります。
カラス
2018/03/08 15:54
☆ カラスさん、「学術的には人間も動物です」というか、学術に関係なくヒトも動物であると、バカ親父にはすなおに納得できます(^^ゞ。というか、ヒトもいわゆる動物も植物も、生き物であるということでは同じだと思います。みんな自然の一部、と言い換えてもいいかもしれませんが。
 ただヒトはちょっと特殊で、考えるというか養老さんの言葉では「意識」を持っています。
 ヒトは自然を排して、意識をあまりにも重んじし過ぎてオカシクなっている。自然を排して都市化して、その中に棲んでオカシクなっている。もっと自然のなかに入って、動物としてのヒトを取り戻した方がいいんじゃないか、と養老さんは言っているようです。
 「解剖学」ということでいえば、そんな学問はなくて、解剖するというのは「生き方」(「考え方」?)だとも言っています。まだよくわからないところですが、なんとなくわかるような気もしてます(^^)/。
 養老さんの本は、いままで考えつかなかったようなことを啓発されて、面白いです(^^ゞ。
遊哉
2018/03/08 16:29

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『半分生きて、半分死んでいる』 団塊バカ親父の散歩話/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる