『骸骨巡礼』



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            〔公園の花壇〕

 『骸骨巡礼』なんて何だかおどろおどろしいが、ミステリーではない(^^ゞ。
 解剖学者の養老孟司さんが南欧(イタリア、ポルトガル、フランス)のお墓や納骨堂を巡礼して、思ったこと感じたことを自由気ままに綴った紀行エッセイである。
 以前に『身体巡礼』として中欧(ドイツ、オーストリア、チェコ)のお墓の巡礼が本になっているが、その第二弾である。
 元々は、新潮社の季刊誌『考える人』('17年4月刊行の60号で休刊)に連載され、単行本としてまとめられたあと文庫化されたものである。

 目次から内容を見ると、次のとおりである。


第1章 死者は時間を超越する
 ひたすら現場を歩く/遊びをせんとや生まれけん/「時間とともに変化しない」もの
第2章 イタリア式納骨堂
 だれだっていずれは骨になる/生者と死者のあいだ
第3章 ウソ学入門
 二重底の菓子折/ロヨラの天井画
第4章 フィレンツェと人体標本
 用もないのに行くところ/歴史とはなにか/アルファベットの世界/ムラージュとゾウムシ/美しいものを求めるのは
第5章 ポルトガルの納骨堂
 『リスボンに誘われて』/欧州の辺境/納骨堂の新しさ
第6章 王の最後の姿
 崩れゆく肉体を/三つの王墓/死の舞踏/死は失敗か
第7章 墓とはなにか
 「使った地図が古かった」/ソルフェリーノの納骨堂/骨はなにも語らない
第8章 感覚の優位
 感じる自由/遍在する心/世界を感覚でとらえる

あとがき
写真の場所について
身も蓋もありません 高橋秀実


 アトランダムに面白いと思ったところを引用・紹介してみる。
 一部だけを抜き出してあるので、ちょっとわかりにくいし、たくさんあるので、適当に選んで読んでいただきたい(^^ゞ。


<現在の日本社会では、実情としての個が実在し始めている可能性がある。たとえば横浜市では、単身世帯が四割を占めるという。単身を世帯と呼ぶべきかどうか、それがまず問題だが、ともかく人生の独り者が増えている。そういう社会が以前とは相当に異質の社会だということを、ボチボチ考慮しなければいけないのではなかろうか。そういう人たちは身近な共同体を持たない。それなら直(じか)に国家と結合してもおかしくはないので、それがネット右翼の背景にある可能性もあろう。
 こうした社会では、じつは生死の意味が異なってくる。そこが社会全体に対して、ボディー・ブローのように効いてくる、といってもいい。共同体では、生死は共同体とともにある。特攻の場合ならお国のためはタテマエで、本音は身近な人たちのためだった。いまではそれを持たない人たちが増えた。では人生とはなんのためなのか。独居老人にとっての生死の意味はなにか。独身の一人暮らしの若者の生の意味とはなにか。状況依存の社会で単身世帯四割という状況が出現すれば、生死は「自分のもの」という暗黙の了解が生じて当然であろう。具体的にはそうとしか、考えようがないからである。ところが「自分のもの」という人生は、年老いてみればわかるが、貧しいものである。だからどこの世界でも、孫から曾孫(ひまご)、やしゃごまでいる大家族の爺(じい)さん、婆(ばあ)さんが出てくるのである。>


<宗教における布教の問題を端的にいうなら、人をどうだますか、である。だますという言葉が穏当ではない、と感じる人もあろう。しかし、だますことは文化の基本と関わっている。むろんここでいう「だます」は広義であって、振り込め詐欺(さぎ)のような具体的なものだけを考えているのではない。いちばん広くいうなら、だますことは情報の発信者と受容者との関係、その具体的なありように包含される。論理的にはその間にさまざまな問題が発生しうる。そういう目で見れば、振り込め詐欺はわかりやすい一例に過ぎない。あそこまで「正直に人をだまそうとする」事例は珍しいからである。
 すべての叙述は、その叙述の内容に対応する根拠を、外の世界に置くか、または心の内に置いている。自然科学は前者で、宗教は後者である。外界にまったく根拠を持たない、外界に関する叙述を、ふつうはウソという。振り込め詐欺の電話の内容がこれに相当する。心の内についても、同じように無根拠な叙述をすることができる。「愛してます」が典型であろう。それが本当かウソかは、当人にしかわからない。この二種のウソは、発信者がウソをつく意図を持っているという点から見て、まとめてウソに分類されるのがふつうである。
 外界に関する叙述に根拠がないが、意図的でない場合を間違いという。「STAP細胞はあります」を小保方晴子(おぼかたはるこ)氏の本音と見なせば、あの事件は「間違い」に分類される。しかし理研の調査委員会は「捏造(ねつぞう)」と見なした。それならSTAP細胞はウソということになる。他方、心的な叙述が無根拠の場合、ふつうは意図的と見なされる。意図的でない場合があれば「いい間違い」という。フロイトはこの種のいい間違いをしばしば偶然とは認めず、無意識の本音と見なした。議論がややこしいのは、ウソを考える場合、叙述の真偽、主客の別、意図の有無という、三つの軸があるからである。それだけでも八通りの場合を考えなければならない。>


<子どもの頃から私がだましに敏感だったということかもしれない。なにしろ無敵皇軍、一億玉砕でだまされ、その後で国語の教科書に墨を塗ったんだから、敏感であって当然であろう。ただしそれは振り込め詐欺のような個人を対象とする詐欺ではなく、社会的なもの、いわゆる「ムード作り」である。こうした社会的なだましは、現在でもごく日常的である。さあ、オリンピックだ、というわけ。べつにオリンピックはだましではない。でもあれが八百長(やおちょう)であっても、不思議ではない。論理的には常に八百長が入る可能性がある。>


<カトリックのような歴史の古い宗派のいいところは、そこをよく理解していることであろう。儀式が多いから、それを形式的として、若人(わこうど)は嫌う。私自身がそうだったから、それは理解できる。でもおそらく儀式は体験の代替物、あるいは体験への入門として機能する。私が生きてきた間にも、古い日本の慣習はかなり消えた。その代わりがスマホになった。スマホで扱われるのは情報で、これは体験の代替物としては弱い。指を動かして、画面を見ているだけだからである。要するに世界の見物人である。見物人にもさまざまな感想はある。だから感想がどんどん増えて、ついには炎上に至る。炎上したからどうかというなら、書いた人が訂正して、それでお終(しま)い。キイボードを叩けばいい。小保方発表と同じで、「初期状態に戻す」のである。それができることが、むしろ情報化社会の問題点であろう。だから軽くウソをついてしまう。
 生物は初期状態に戻らないから、厄介なのである。八十年近く生きていれば、初期状態に戻るはずがないとわかっている。でも若返り法が盛んだということは、自分を初期化することが現代人の夢であるらしい。STAP細胞はその夢を膨らませた。夢は否定しないが、その過程で生じるメタ・メッセージが問題であろう。世界は意識的にコントロールできる。そう思うことが意識の最悪の癖である。それを訂正するのは唯一、外界からの入力、つまり感覚である。スマホの世界はその感覚を限定してしまう。冷暖房完備、人工照明で明るさ一定、太陽が見えないから時間の経過は不明、天候不明、風景はほぼ不変、そういう部屋で毎日仕事をする。どんどん変化するのは、画面だけ。それをおかしいと思わない、当り前だと思う人が増えているわけである。>


<要するに元気のいい人は外に出ていくから、ポルトガル本国は過疎(かそ)の田舎町みたいなものといえばいいか。でもそれなら現代日本の大部分と同じことである。私は過疎地の贔屓(ひいき)だから、ポルトガルの贔屓なのかもしれない。世界の人口はまだまだ増える。それなら過疎地こそ未来の資源だが、そう思う人はあまりいない。>


<「禅の味」というレストランに行く。ビュッフェ方式で、自分で好きなものを好きなだけ取るから、前日のように、食べ過ぎで死にそうになるようなことはない。年寄りにはこのほうがいい。年寄りは消費がなんでも控えめになってしまうから、老人が増えると景気が悪くなって当たり前である。藻谷浩介(もたにこうすけ)さんのいう通り、日本は労働生産人口が減るばかりなんだから、デフレで当然である。しかも生産能力は巨大で、需要があっても、あっという間に飽和してしまう。本を考えたってわかる。いったい一年に何冊の新刊本が出版されるのか。まさに供給能力過剰というしかない。全部に目を通している時間など、とうていない。>


<第二次大戦なら、私も少しは知っている。小学校二年生の夏休みまでのことである。二〇一五年は戦後七十年ということで、あれこれ行事があり、論評があった。自分でもなにか考えようかと思ったが、なにもない。戦争について、なにも考えたくないのである。
 おそらく戦争とは、それについて考えるものではない。そんな気がする。多くのものごとは、するのか、しないのか、それだけである。結婚すれば、しなかった時はどうなのだと思っても、いまさらどうしようもない。準備があるだろうといっても、結婚に万全の準備というものがあるだろうか。
 結婚はともかく、国家の非常時については、考えなくてはならないだろうが。安倍総理ならそういうかもしれない。それはもっともに聞こえるが、それなら現代はどうか。中国を仮想敵国として、なにを「考え」たらいいのだろうか。もう一度、大陸に攻め込もうというのだろうか。>


<することは状況の産物で、その状況をわれわれは自分で本質的には左右できない。すべての状況をコントロールすることは不可能だからである。その意味で状況は与えられてしまう。あとから思えば、つまり情報化してしまえば、ああすればよかった、こうすればよかった、と思うかもしれない。でもそれはあくまでも後知恵でしかない。ところが「生きている」ということは、まだ済んでしまっていない、ということである。納骨堂はそれをどこまでも考えさせる。死者に向き合うことの意味はおそらくそこにある。>


<欧米社会、とくに米国では、自由は主体のする選択にあると見なす。だから、「お茶にしますか、コーヒーにしますか」と、アホなことを訊(き)く。私は若いころはこれが大嫌いだった。日本だったら、黙って飲み頃のお茶に羊羹(ようかん)が出てくる。それが気に入らなければ、食べなければいいのである。なぜ「お茶か、コーヒーか」なのかというと、お客の好みを親切に尋ねているわけではない。そこではお茶にするか、コーヒーにするか、それを「選択する主体が存在する」ということを暗に認めさせようとしているのである。その強制を若いころの私は嫌ったのだと思う。選択することを自由意志といってもいい。しかし自由意志の前提には、それを保持している「主体」が存在している。「お茶か、コーヒーか」という時の強いメタ・メッセージは、「主体の存在」なのである。「選択の自由」を強調することによって、「主体の存在という物語」を暗に強制する。米国人が押しつけがましいのは、多くの人が折に触れて感じることであろう。その根本にはこの種の強制がある。なにが自由だ。そんなふうに私は思ってしまうのである。逆説的に言えば、だからこそ欧米の文化では、自由、自由と繰り返すのであろう。自由が叫ばれる根底には、暗黙の強制が存在している。>


<現代人は意識の中に住まう。それはそれで仕方がない。意識は情報を扱うが、上方はじつはすべて過去である。情報化された瞬間に固定し、ひたすらそのままに留まる。それは生きていること、諸行無常、万物流転(るてん)と百八十度違う。そんなことは明らかであろう。だから現代人はうっかりすると生きそびれる。生きることは変化することであり、留まらないことであり、二度と同じ状態をとらないことだからである。情報を追ってばかりいると、それをすっかり忘れてしまう。だから生きることに直面した瞬間に戸惑う。想定外だという。>


<八十歳に近づいて、いまごろ「生きる」ことに気が付いても遅いわ。でもまあ、ありがたいことに、長年骸骨に接してきたおかげで、それを考えることくらいはできる。ホスピス勤務の医師にいわれたことが忘れられない。九十歳を過ぎたお爺(じい)さんが入院していて、毎日死にたくないとわめくんですよ。ということは、九十歳を過ぎて、これから生きようと思っているわけである。それはそれでいい。でもこの人はこれまで生きてきたのだろうか。生きることを先延ばししてきたのではないのだろうか。現代社会、情報化社会には、そういう恐ろしさがある。将来のため、いざという時のため。それが本当に来るのだろうか。おそらく来ない可能性が高い。私はそう思う。
 いまを生きるとは、そのことであろう。いましか生きられないのは、当たり前である。でも予測をし、それに見合った統御を続けていれば、人生は自分の掌の中にあると錯覚する。でも気が付いた時には想定外が起こっている。自分が歳(とし)をとり、目はかすみ、耳は遠くなり、歩くのも不自由になり、記憶力は衰える。若いうちはそんなことは予測しない。予測しているというのは、たぶん嘘である。だってそうなってみなければ、実感はないからである。
(中略)私にとっては、一冊の書物より、納骨堂のほうが参考になる。書物は情報だが、納骨堂とは全身で格闘しなければならない。それは修行であり、修行のありがたさは、どこだとははっきりはいえないが、ともかく自分を変えてくれることである。納骨堂をだれが作ろうと思ったのか、それは知らない。知る気もないと書いた。ただそういうものを作ろうという気持ちを思う。最近私は虫塚を建立(こんりゅう)した。たぶんこれも似たようなことなのだろうと感じる。
 墓はじつはそういうものであろう。墓に実際的な意義はない。ただその前に佇(たたず)むだけである。
 この果てに君ある如(ごと)く思はれて春の渚(なぎさ)にしばしたたずむ。
 これは『きけ わだつみのこえ』を最初に読んだ頃に目にした歌だ(『この果てに君ある如く』所収)。自然もまた、そう思えば墓なのである。人は常にそこに戻る。>


<タバコは「さあ、これから吸おう」などと決意して、喫煙室で一意専心吸うようなものではない。現代人は人間のすることにはなんであれ、機能的な意味があると信じているのであろう。タバコなんて、吸っている本人がなんのためだか、わかってやしないのである。中毒だという人もあるが、中毒は人間につきもので、インテリなら読書中毒、経済人ならお金中毒、若者はスマホ中毒、酒の中毒はいうまでもない。事柄は小さいけれど、なんだか意味不明のことをする。生活の中で、そういう余裕も許されなくなってきた。お墓なんて、死んだ当人を覚えている人がいなくなったら、意味がなくなる。そう思っているに違いない。縁もゆかりもない、他生(たしょう)の縁だけを頼りに、赤の他人の墓を見て歩く。あえてそんな「無意味なこと」をするのは、現代では私くらいだろうか。>


<欧米の文化では自由とは運動系に関わる。なにをするか、つまり「する自由」が意識されている。東洋ではそれはむしろ感覚系に関わる。「感じる自由」ではないか。これはずいぶん乱暴な総括で、それが「正しい」などと思っているのではない。議論の視点をはっきりさせるために、こういう表現をしただけである。
「感じる」のは自然で、それはしょうがないだろ。自由もクソもない。そう思った人は新約聖書を見ればいい。女性を淫(みだ)らな目で見てはいけない。目を抉(えぐ)り出せと書いてあるはずである。原理主義だなあ。日本なら久米(くめ)の仙人、空中飛行できるほど修行を積んでも、やっぱり女の脛(はぎ)に惑わされて雲から落ちる。これはしょうがないのである。
 しょうがないなら、自由はないだろ。だからこそ、修行を積む。なんとかそこを自由にしたい。べつに女に感じなくなっては面白くないから、それはどうでもいい。状況次第で適当に行動できるようにしたい。せめて雲から落ちない程度にはしたい。それならやっぱり行動の自由だろ。そうではない。「状況に合わせて自由に」行動できるようにしたいのである。心頭を滅却(めっきゃく)すれば、火もまた涼し。状況に合わせるためには、観察眼を磨く必要がある。面壁九年、ただ洞窟(どうくつ)の壁を見ていたんでは、観察もクソもないではないか。だからそれは、見ることの神髄を知ろうとするのである。余計なものに気をとられてはいけませんからね。認知科学が明らかにしたことだが、目の前をゴリラが通り過ぎたって、気が付かない人は気が付かないのである。
 それなら欧米でも、感覚の自由は同じじゃないか。主体があると、そうはいかない。状況に合わせて、自分で判断する。あくまでも主体が支点となって、「状況を動かす」のである。だからしょうがなければ相手を殺す。問題自体を消去する。>


 はてさて長くなり過ぎた。このあたりでオシマイにしておく(^^ゞ。


<今日のお薦め本>
『骸骨巡礼 [イタリア・ポルトガル・フランス編]』 養老孟司 著、新潮文庫、767円、19.07.01. 発行
 著者について、改めてカバー裏から紹介しておきます。
<1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。'89(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『身体の文学史』『手入れという思想』『遺言。』『半分生きて、半分死んでいる』など著書多数。>

骸骨巡礼 :イタリア・ポルトガル・フランス編 (新潮文庫)
骸骨巡礼 :イタリア・ポルトガル・フランス編 (新潮文庫)

<後記>養老さんは南欧3国の日本では見かけないような奇妙なお墓や納骨堂を巡礼しながら、縦横無尽にいろんな思いや考えたことを書き綴っていきます。
 生と死、意識と感覚や日本人と欧州人との身体感の相違などに着目し、自然と社会における神羅万象に思いを馳せていきます。
 こちらの頭をゴチャゴチャにしてくれて、面白いです(^^ゞ。

 養老さんは、バカ親父が卒業した小学校の10年上の先輩です。戦中と戦後の違いはありますが、鎌倉というのは現在と違ってまだまだ田舎でした。
 自然も残っていたし、大仏などは塀が壊れていて草ぼうぼうで、観覧料などの徴取もなく子どもたちの遊び場になっていました。
 彼の虫好きは、そんな環境が影響しているのかもしれません(^^ゞ。
 とても面白い考えをもっている方ですが、この本も興味深いことがいろいろ書かれているので、よかったら読んでみてください(^^ゞ。

 今日(13日)は曇り空が続き、夕方になって雨になった。もう少し陽が射すかと思ったが、まったく射さなかった。
 気温もそれほど上がらず、ちょっとだけ肌寒かった。
 日中はテレビを観て過ごした。
 夕方の5時前になって、

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 廊下にいたSORAから、こんな目つきで見つめられてしまった。
 散歩に出ることにした(^^ゞ。雨がポツポツと降っていて、傘を差すほどではなかったので手に持って出た。
 公園の桜並木を上っていった。

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 原っぱに出てウロウロしていった。

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 SORAはあちこちでクンクンしていく(^^)/。

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 どこを見ても雨雲に覆われている。

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 SORAはテニスコート脇を上っていく。

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 テニスコート脇を回っていった。

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 SORAは原っぱに下りる直前で立ち止まり、遠くに見えた柴ワンコをしばらく見ていた(^^ゞ。
 帰ることにした。

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 公園を出るころから雨がちょっと多くなったので傘を差した。

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 明日(14日)の横浜の南の端っこの天気は、一時止むことがあっても雨が降り、特に朝は雷を伴った激しい雨が降りそうです。
 北の風で気温が下がり、肌寒そうです。

この記事へのコメント

seizi05
2019年07月14日 06:01
新聞取りに行ったら じゃんぶり 
本日 soraちゃん お散歩 中止!
遊哉
2019年07月14日 07:58
☆ seizi05さん、すごい雨でしたね(^^)/。
 ちょっと前に散歩から帰ってきたところですが、小雨になってました。SORAは元気です(^^ゞ。
2019年07月14日 08:25
遊哉さん、おはようございます。
SORAとの散歩!天空を眺め!読書三昧の暮らし…
ステキ!ステキ!憧れます。
遊哉
2019年07月14日 08:51
☆ みっきい さん、おはようございます♪
 SORAとの散歩も、空を見るのも、読書も、貧乏人の暇人だからできます(^^ゞ。
 
kawa
2019年07月14日 09:24
養老孟子さんの本は面白いので何冊か読みましたが「骸骨巡礼」は読んだことがありません
しかし 遊哉さんの詳しい概要で内容や面白さが十分に伝わりました
それにしても すごい読書量ですね(@_@)
遊哉
2019年07月14日 11:38
☆ kawaさん、養老さんの本は、いろんな考え方を教えてくれるので面白いですね。
 バカ親父が面白いと思ったところを引用しただけなので、内容がうまく伝わったかどうか心配ですが、よかったです(^^ゞ。
 どうも活字中毒なようで、何か本を読んでいないとオカシクなります(^^)/。
かかと
2019年07月16日 14:34
今頃、すみません。ブログを読む余裕がなくて。
90になってから死にたくないと言うおじいさん。生きることを先延ばしにしてきたのではないか。情報社会はそういう恐ろしさがある。将来のため、いざという時のため、それが本当に来るのか。おそらく来ないだろう。
身につまされます。あぁ、何と残酷、でも事実。
養老さんは、酷な事もシャーシャー言ってのけますね。時々、聞き取れない時もあるけれど(ボソボソと早口で)。養老さんの講演会、ある度に行っていました。
本の紹介、ありがとうございました。
遊哉
2019年07月16日 19:42
☆ かかと さん、コメントはできる時で、いつでも結構ですよ♪。
 生きるというのは、今しかないんですよね(^^ゞ。
 「老後」なんていう言いかたがありますが、若い人にとっては「老後」がはたしてあるかどうかはわかりません。老後真っ最中のバカ親父などは、今の老いを楽しむほかはありません(^^)/。
 人は生きていると同時に死につつあるとも言えます。あの世にいくまで、今を精一杯生きていきたいものだと思ってます(^^ゞ。
 養老さんの書いたり言っていることは、残酷とも思えますが事実をしっかり見据えているような気がします。気がつかなかったことを、教えてもくれますね。養老さんの講演会にいらしてるんですね。一度行ってみたいです(^^ゞ。
 本の紹介を喜んでいただいて、嬉しいです(^^ゞ。