『猫も老人も、役立たずでけっこう』




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                〔顔のように見えた夕雲(^^ゞ〕


 養老孟司さんの写文集『猫も老人も、役立たずでけっこう』を紹介する。
 NHKで「ネコメンタリー 猫も、杓子も」という番組があった。そのなかで、Eテレの「養老センセイとまる」と、BSプレミアムの“特別編「養老センセイとまる 鎌倉に暮らす」での撮影インタビューを基に構成されたものである。

 “まる”というのは、養老研究所で営業部長を務める、ちょっと太目のスコティッシュ・フォールドという種類の猫である。
 以前に写真集が出てとても有名になった、ちょっとブスカワのニャンコなのだ(^^ゞ。
 その“まる”と生活していて、養老さんはいろいろ教えられることが多いという。
 そんな話がまとめられた本である。“まる”の写真もたくさん載せられている。

 次のようなタイトルの話が入っている。

 吾輩はまるである/違いのわかる猫、マヨラー猫/生きているだけで、迷惑/そんなに稼いでどうするの?/動物とのつきあい方/「関節が痛ぇ」/笑って死ぬ/「オレオレ詐欺」には騙されません/信用できるのものはなんだ?/ゾウムシで世界が変わる/虫捕りのススメ/なぜ「猫に小判」なのか?/スタバのコーヒーはどこでも同じ?/日本語は「悪魔のコトバ」/人間がいらなくなる日/東京は消滅する?/腹にバイ菌、手すりに除菌/個性を伸ばせとおっしゃいますが……/脳みそを変える/みんな〇・二ミリの卵/役立たずでいいじゃない/自分なんてナビの矢印/病院には行きません/喫煙家で禁煙家/来る寝る遊ぶ、ときどき邪魔/私はもう死んでいる

 何か所か紹介してみるが……だいぶ長くなりそうだ(^^)/。


○ 吾輩はまるである
<数を教えるのが好きではない。尋ねられるのも苦手です。でも、そんなことおかまいなしに、人は私に問いかけますな。「日に何本タバコを吸いますか?」、「月に何冊本を読みますか?」、「虫は何匹持っていますか?」。私にしたら、「あんたが数えてくれ、ただし給料は出さないよ」、そう答えたくなってしまう。
「先生にとって、まるとは?」これもよく聞かれます。たいてい、「ものさしですよ」と答えている。いちいちあれこれ考えるのが面倒だから、「ものさし」と言っているわけじゃありませんよ。まるは実際、私のものさしなんですから。
 自分の住む世界の価値観に、人は暗黙のうちに合わせられてしまう。常識や慣習、考え方、ものの見方、人の世に暮らせば、知らぬ間にそういうものが我が身にも染(し)みついているんです。それは、世間のものさしですよね。だから時々、ものさしを取り替えたくなる。まるをものさしにすることで、自分のものさしがリセットされるんです。
 もっと成長を、もっと効率を。そんなものを必死に追い求めた結果、世の中はわけのわからないものになってしまいました。しかも、誰もがそれを進歩だと信じ込んでいる。ヒトの欲はキリがない。かたや、猫に限らず、動物は足ることを知っています。どちらが馬鹿で、どちらが幸せなんでしょうね。
(中略)
 私は八十歳、何を言っても遺言、写真を撮れば遺影という歳になりました。まるも十五歳を過ぎています。お互い立派な老後ですな。腹がすいたらメシを食い、気が向けば一緒に散歩する。眠くなったら寝てしまえばいい。それでいいじゃないですか。何もせず、日がな縁側に寝転がっていたところで、誰も困りはしないでしょう。
 役立たず? それでけっこう。>


○ 「関節が痛ぇ」
<人間は、必死になってすごいシステムを構築しているけれど、どうせ歳とったらみんな死ぬんです。だったら、何でもほどほどでいいでしょう。歳をとると実際、そう思うようになるんです。「ああ今日も無事にすんだ」って、それだけで満足しちゃう。まるだって、食べることと寝ること以外、何も考えていない。もちろん昨日のことは忘れている。だからすべてが一期一会。その良さもあると思うから、まるを見て参考にしているんです。>


○ 「オレオレ詐欺」には騙されません 
<信仰というのを考えると、論理的に言うと、それは一種の自己否定の逆ですね。信じるという行為と神様という存在はほぼイコールなんですよ。つまり神様というのは正体不明ですから、それを信じるということは、要するに「信じているということ」を信じている。それはもっといえば、自分が正しいと言っているのと同じことでしょう。
 そういう意味では私は、自分なんかあてにならないと思っていますね。だけどまあ、自分なんかあてにならないという前提で生きるのは、なかなか体力がいることなんです。
 こうして本が書けるのだって、八十年の間、ずっと疑い続けてきたから。そうでしょう。違和感がなければできませんからね。子どもの頃から疑っていれば、それが訓練になる。先生の言うことでも新聞に書いてあることでも、「本当はどうなんだ」っていちいち考えるわけです。
 疑ったり考えたりすることは毎日運動しているのと同じだから、筋肉ができるわけです。楽をしていたら絶対に体力はつかない。だから、楽しようとするやつを見たら腹が立ってくる。疑うことは考えることで、疲れることでもあるんです。>


○ ゾウムシで世界が変わる
<ゾウムシの魅力は何かというと、こういう自然のものでも区別がつけられるようになると、どんどん面白くなってくるということ。違いを見つけるコツは「慣れ」です。「眼ができてくる」んです。これは違うとか、これは違って見えるけど同じだとか。そういうことが、極端にいうと一目でわかるようになってくる。骨董品(こっとうひん)の鑑定もそうでしょう。
 違いがわかるようになる、それはつまり、「発見」ですよ。なぜ八十歳になっても、飽(あ)きもせずに虫を見ているのか。お金には全くならないし、尊敬もされないけれど、この「発見」があるからですよ。
 みなさん、「発見」って、何かを見つけることだと思っているんでしょうね。違うんです。たとえば、ある日突然、今まで同じだと思っていた虫が違う種類であることに気づくとする。それは、「違いがわからなかった自分」が「違いがわかる自分」に変わったということ。見える世界が変わったということなんです。つまり、「発見」というのは「自分が変わる」ことに他ならない。自分が変わった瞬間、世界も変わるんです。
 発見があると、自分が生きているということを、しみじみ実感できる。だから私は、虫を見るんです。これも違う、あれも違う、まだある、まだまだあるって、きりがない。だから面白いんです。まあ、一生かかっても終わりませんな。>


○ 日本語は「悪魔のコトバ」
<言葉が中心であるというのは、非常に欧米的な考え方です。聖書は「はじめに言葉ありき」でしょう。アルファベットなんて、AからZまでの二十六文字で言葉にできるものは全部表せてしまうんです。
 でも、本当は言葉にならないものもたくさんある。そういう感覚的な印象を多く残しているのが日本語の特徴のひとつです。オノマトぺが多いでしょう。「しみじみ」とか「つくづく」なんて、数え上げたらキリがない。こういうものは、英語や他の言語には変換できません。なぜなら非常に感覚寄りの言葉だからですね。日本人の感性と文化がいかに感覚に寄っているかということを示しています。
(中略)
 日本語は感覚的な言葉だと言いましたが、もう一つ特徴があります。それは音訓読みでしょう。漢字文化は日本以外にもありますが、訓読みをするのは日本だけです。典型的な例をひとつ。「重」という字がありますね。これは「重(おも)い」のほかに、「重(じゅう)大」、「重(ちょう)複」、「重(かさ)ねる」、人名などで「重(しげ)」とも使われ、五通りも読み方があるでしょう。十重二十重(とえはたえ)はどうですか。この論理を外国人に説明しろと言われても無理ですよね。現にフランス人に説明したら「悪魔のコトバだ」と言っていたくらいです。ところが、日本人なら誰もが平気で異なる読み方ができる。>

<今はスマホで簡単に調べられる時代ですが、そんなもの私に言わせれば運動不足です。なんでも指の先だけで押せばいいってものじゃないだろうってことです。手で書いたり辞書を引くのだって、身体を使うということですよ。だから私は、しょっちゅう若い人に「身体を動かせよ」と言っているんです。
 便利な世の中だからこそ、楽なことばかりしていちゃいけないんです。楽をすると何が起きるか。これはもうはっきりしています。自分が教育されない。車に乗ってばかりいたら歩けなくなる。それと同じことですな。>


○ 東京は消滅する?
<経済関係の人はこう考えます。景気がよくないので結婚しない、それで少子化が起こっているって。でも、明らかにそれだけじゃないですよ。貧乏で結婚できなくて子どもをつくれないんだったら、落語に出てくる、江戸時代の貧乏で子沢山の長屋話なんかありえないでしょう。そう思いませんか。
 子どもが増えないのは、根本的には都市化と関連しているからだと、私は思います。都市は意識の世界であり、意識は不確定要素の多い自然を嫌います。つまり人工的な世界は、まさに不自然な世界なんですよ。ところが子どもは自然でしょう。思うようにならない。予定通りにいかない。設計図もない。欠陥品だからといって取り替えるわけにもいかない。そういう存在を「意識」jは嫌うんですよ。意識の世界というのは、すべてが「ああすれば、こうなる」というアルゴリズムで動かなければいけないから。
 でも、子どもってそうはいかないでしょう。自然そのものなんだから。苦労して育ててみても、どんな大人になるかわからないじゃないですか。うまくいけばタレントになってくれるかもしれないし、犯罪者になってしまうかもしれない。そんな危ないもの、関わらないほうが無難じゃないですか。
 そういう考え方をしたら、そりゃ子どもは減るに決まってますよ。そんな危ないもの誰がつくるかって。猫のほうが気が楽でしょ。子どもほど大変じゃないから。むしろ、子どもの代わりになっていますよね、今は。人間の子どもはちょっと重たいから、猫のほうが無責任でいいってことになるんでしょう。
 少子化は、人々が自然に対峙(たいじ)する方法を忘れてしまったことに根本の原因があるんじゃないですかね。私はそう思う。なぜ忘れたか。意味で満たされた、意識の世界に住み着いているからですよ。>


○ 個性を伸ばせとおっしゃいますが……
<「人の心がわかる心を教養という」、これは大学時代の恩師の忘れがたい言葉です。ものをどれだけ知っているかではなく、人の気持ちが理解できることのほうが大切だということです。最近はむやみに「個性を伸ばせ」などと言いますが、こういう教養がおろそかになっているのではないでしょうか。むしろ、人のことがわからないほうがいいと思っているフシがある。>


○ みんな〇・二ミリの卵
<私は解釈をあまり信用しません。「それも考えられるよね」というところでおしまいにします。文学作品にあるでしょう。「藪(やぶ)の中(なか)」や「羅生門(らしょうもん)」。事件はひとつでも、解釈は三つも四つもある。それが困るから、神様という存在があるんです。
 現実はひとつであることを、神様が保証する。なぜかというと、地球上に六十億の人がいたら、その六十億人が知っていること、見ていることは全部ばらばらですから、唯一起こったことというのは、実は誰も知らないことになる。だから、「全てを知っている神様」を事実と呼ぶ。これを唯一客観的事実というんですが、それがあると思っているのは一神教の信者です。>


○ 役立たずでいいじゃない
<世界は実は役に立たないもので満ちているんですよ。現代社会はそれをすっかり忘れさせてしまうんです。
 学校は近代生活の基みたいなところで、教室の中に無意味なものはないし、ゴキブリも出ません。とても不健康だと思いませんか。私はそう思うし、そんなところで何時間も子どもを育てていいのかとさえ感じます。
 昔は、学校の外に出たら無意味なものが山のようにあった。だから、そういうものがない聖域として、学校をつくったという理屈はよくわかります。ところが今は、学校の内も外も同じでしょう。意味のある役に立つもので満たされていて、無意味なものの存在は排除される。そんな環境にいたら、子どもだっておかしくなってしまうでしょう。だから、その反動として、「森のようちえん」やフリースクールなんかが出てきたんじゃないでしょうか。
 まったく、校庭なんか舗装して何を考えているんでしょうね。あんなもの、土でいいでしょう。掘りかえしてミミズでも出てくれば楽しいし、モグラだったらもっといい。まるだって、舗装された校庭なんか歩きたくないって言いますよ。
 SNSもそうじゃないですか。生身の人間とつきあうより、意味を通したつながりのほうがいいってことでしょう。だから、世界はものすごく清潔で狭くなってしまった。当然虫なんかいないほうがいいんですね。
 ハエ一匹ゴキブリ一匹出てこない環境は、異常で不健康な世界なんだって気がつかないといけません。有用性のあるものが偉いなんて考えは捨てるべきですよ。>


○ 病院には行きません
<今、自宅でお産をする人はほとんどいないでしょう。亡くなるのだって、日本人の八割前後が病院になった。人間のふだんの生活から「生まれて死ぬ」という自然の過程が消えて、ふつうではない「非日常」になってしまっているんです。人生は、病院から出てきて病院に帰るんだから、日々の暮らしは「仮退院」ということになります。やれやれ、ですな。
 最近の健康ブームもあって、老人たちは治療したら元の身体に戻ると勘違いしていますね。そんなわけないでしょう。歳をとったら病気の三つや四つ抱えているのは当たり前。車だって何年も乗ったらガタがくる。それと同じで、人間も「中古」になるんですよ。六十歳過ぎたら病気なんか治るわけない、病院にばかり行くのは無駄。
 死なない人はいないんだから、過剰に不安を持っても仕方がない。そう心得てくださいな。>


○ 私はもう死んでいる
<まあ、私も母みたいに、できるだけ普通に暮らして、朝起きたら死んでいたというのが一番理想的です。何もわからなくなって、どこかで行き倒れて死んでしまうのでもいいし、乗っている飛行機が落ちて死ぬのでもかまいません。
 人は誰でも死ぬんだから、死は、本来特別なことではないはずでしょう。でも、今は誰もが特別なことにしてしまっている。そうじゃないとわかっていればいいんですが、本当にみんな、そう思い込んでいる。
 死体を見るということは現実を見るということなんです。必ずみんなが通ることであって、それを見ることができないというのは、変ですよ。それを変じゃないと言い張って、それが文明人だと言うのであれば、生まれないで死なないでくれと言うしかないでしょう。人間が必ず通るものを見ないのは不自然です。>

 キリがないので、このあたりでオシマイにしておく(^^ゞ。


<今日のお薦め本>
『猫も老人も、役立たずで結構』 養老孟司 著、河出書房新社 刊、1404円、18.11.30. 初版発行



<後記>一部を切り取っているし、中途半端で終わっているような引用もあるので、ちょっとわかりにくいところがあるかもしれません(^^)/。
 読んでいただいて、何だか面白そうだと思ったり興味を持たれた方は、この本やその他の養老さんの本を読んでみてください(^^ゞ。
 なかなか味わい深いことが書いてあります。

 今日(17日)は朝から雨でした。昼前ころから雲が減って陽射しも射すようになりました。
 気温は思ったようには上がらずに、肌寒かったです(^^ゞ。

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 朝の散歩から帰ったSORAは、エサを食べてからストーブ犬になっていました。ピントが合ってなくてわかりにくいですが、アクビをしています(^^ゞ。

 夕方の散歩は4時10分ころに出ました。

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 公園を斜めに上って原っぱに向かいました。西空には赤く染まった雲があります。

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 月が見えました。

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 原っぱをウロウロしながらベンチに向かいました。

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 SORAはクンクン(^^ゞ。

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 西空の雲は暗くなってきました。

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 水溜りがあちこちにできています。

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 ベンチに座りました。

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 SORAは、仲良しの2匹のジャックラッセルが遊んでいるのを見ていました。

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 西空全体がピンクになってきました。

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 風がなく寒くなかったのでのんびりしていましたが、暗くなったので帰ることにしました。

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 明日(18日)の横浜の南の端っこの天気は、一時曇るかもしれませんが、晴れて気持ちの良い空が広がるようです。冬の寒さが続きそうです。

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