以前に3冊ほど紹介したことのある穂村 弘さんの本『絶叫委員会』の紹介である。 雑誌「ちくま」(筑摩書房)に連載された、言葉に関するエッセイ集と言っていいと思うが、最初の「外の世界のリアリティ」のはじめに、こんなことを書いている。 <「絶叫委員会」では、印象的な言葉たちについて書いてみたいと思います。 映画や小説のなかの名台詞、歌謡曲の歌詞、日常会話、街頭演説、電車の吊り広告の見出し、日々のように届く怪しいメール、妻の寝言など、いろいろなところから言葉を拾ってくるつもりです。> 目次は次のようになっている。 外の世界のリアリティ/右は謎/出だしの魔/致命的発言/パニック発言/パニック発言・その2/ヤクザの言葉/恋人たちの言葉/恋人たちの言葉・その2/天使の呟き/天使の呟き・その2/天使の叫び/オノパトペたち/直球勝負/直球勝負・その2/あるけどないもの/「ありがとう」たち/現場の弾力/絶望の宝石/世界を凍らせる言葉/電車内の会話/女の主体性/心の戦国武将/エクステ/美容室にて/おんなのちんこ/理不尽の彼方/逆効果的/わが町/第一声/うっかり下手なこと/だっちだっち/世界が歪むとき/ルート「ありえない」/OS/正解/幻の地雷/天然/サービストーク/そんな筈ない/ある/本気度/粘り紙の声/人生が変わる場所/ネーミング/結果的ポエム/名言集・1/名言集・2/名言集・3/あとがき 選び出した言葉について、穂村さんの想いとか考え方や、その言葉の背景などについて考察を加えている。 一部を抜き出すのが難しいのだが、いくつか紹介してみる。長くなると思うので、時間のあるときにでもお読みください(^^ゞ。 【世界を凍らせる言葉】 <僕が真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって ぼくは廃人であるさうだ (「廃人の歌」吉本隆明)より この詩句をはじめてみたとき、痺れた。 詩人だなあ。 かっこいい。 それ以来、世界を凍らせるような言葉に憧れをもっている。 吉本隆明は詩論においても「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである」と述べているらしい。 でも、そんな詩を実際にみたことはない。 にも拘わらず、現実の生活のなかで、何かの拍子にそのバリエーションみたいなものに出会ってしまうことがある。 数年前のこと、私はAさんという知人の女性と挨拶を交わした。 ほ「お久しぶり、お元気ですか」 A「堕胎しました」 世界は凍らなかったが、私は凍った。 知人と云っても、私がAさんと会うのは二度目なのだ。 彼女の言葉は嘘や冗談ではないだろう。 「元気ですか」と訊かれたから、ナチュラルに「真実」を答えたというだけなのかもしれない。 でも、このタイミングでそこまで「真実」ってどうなんだろう。 私がお腹の子供の父親とかならともかく、そんな事実はないのだ。 一般市民への無差別「真実」攻撃とでも云うべきか。 彼女の言葉に対して、私は魚っぽい笑顔を浮かべるのが精一杯だった。 (後略)> 【逆効果的】 <(前略) あと、シンプルで威力のある逆効果発言として思いつくのはこれ。 「何歳にみえる?」 たったひと言で、瞬時に無用な緊張感を作り出す言葉だ。以前、エレベーターのなかで耳にしたときは、びくっとした。どきどき、答え方を間違えるなよ、と無関係なのに不安にさせられる。この言葉を口にしていいことは何もないのに、わからないのか。自意識の扱い方というか、アピールの方向性が歪んでいると思うのだ。 悪気はないけどケアレスな逆効果発言というものもある。先日、電車のなかでひとりの女の子が「ユミさん」らしい相手に向かってこんなことを云っていた。 「ユミさんって、根は優しいんですね」 ああ、と思う。「根は」は要らないね。 (後略)> 【うっかり下手なこと】 最初に、こんな話が語られる。 近頃の車内広告で「日本最大級」などという決まり文句が見られる。「級」という一文字がポイントで、同様のものに、「手打ち風」「ホームメイド風」などの「風」、「自分的」「あたし的」などの「的」がある。 これらの共通点は、一文字であることと、「他人に突っ込みを入れさせない」ために使われていることだ。 たとえば、「自分的」には「とにかく自分のなかではそうなんだから、あんたの意見と違ってても知らないよ」という意識がある。 といった話のあとで、 <いずれも一文字でこのニュアンスを表現して、他者の突っ込みに対するバリアを張れるところが便利なのだ。 これを逆に考えると、今は「うっかり下手なこと」が云えない時代なんだということがわかる。「うっかり下手なこと」を云うと、突っ込まれたり、クレームをつけられたり、ときには訴えられたりする。 どうしてそういうことになったのだろう。メディア環境の変化による情報量の増大、個人の権利意識や消費者意識の高まり、それらに起因するコミュニケーション形態の変容といった流れだろうか。 確かに、インターネットのブログや掲示板には、知り合い同士の相互贈与的な好意のやり取りがある一方で、第三者に対しての厳しい駄目出しが目立つ。みんな他人のやることが気に入らないんだなあ、と思う。 そんな感覚が浸透するにつれて、自らの身を守る必要性が高まってゆき、発言や広告のなかに「級」や「風」や「的」が鏤(注:ちりば)められるようになったのだろう。 だが、おそらくはこれと表裏一体の現象として「うっかり下手なこと」が許されるようなキャラクターや関係性や場に対する憧れも増しているようだ。「天然」「ゆるい」「脱力」などの語によって、それらへの好意は語られている。 先日、隣町の茶藝館に行ったときのこと。メニューを開いて、おやっと思った。各種のお茶の名前、その横に特徴や効能が記されているのだが、オーナーが台湾のひとのためか、微妙に日本語が不安定なのだ。或る銘柄の横には、こんなコメントが付されていた。 飲んだあと、口が素晴らしいお茶です。 おお、と思う。素晴らしいが素晴らしい。これは、どこからでも突っ込めすぎて、突っ込むことができない。「うっかり下手なこと」の宝石だ。 (後略)> 【そんな筈ない/ある】 <肉屋の看板に豚の絵が描かれていることがある。にこにこ笑ったり、楽しそうに踊ったりしているのをみるとこわくなる。だって、そんな筈ないだろう。 他の動物を殺して食べる、という我々の現実そのものがこわいわけだが、そのこわさには少なくとも嘘はない。だが、看板の豚を笑わせたり躍らせたりすることには、この真実を勝手に軽くねじ曲げてこわさから目を逸らさせるようなこわさがある。 と云いつつ、私は自分が食べるものを自分の手で殺した経験が殆ど無い。誰かに代わりに殺して貰って何十年も食べ続けている。そのことに対する後ろめたさも、たぶんこわさを助長しているのだ。 そんな筈ないだろう、と感じるケースは他にもある。例えば、知り合いの女性編集者は、友人の男性にこう云われたらしい。 「君は本当の愛を知らない」 うわっと思う。彼女が実際に「本当の愛」を知っているかいないかに拘わらず、こんな決めつけはあり得ないだろう。根拠なく上からの物言いであり、余計な御世話であり、微妙な脅しであり、なにやら口説きが入っている気配もある。これを口にしたひとの自己都合の塊のような言葉だ。「本当の愛」などという抽象的な大問題を、しかも他者の実相について、こんな風に断言できる筈がない。いや、たぶん話は逆で、具体的な小問題のかたちでは根拠の無さがすぐにばれてしまうから問題を大きくしているのだ。 (中略) テーマが重くなればなるほど、そんな筈ある言葉を捉えるのは難しくなる。いつだったか、テレビでフレッド・ブラッシーのエピソードが紹介されていたのを思い出す。銀髪の吸血鬼の異名をもつ稀代の悪役レスラーの素顔は温厚な紳士だったらしい。そんな彼の試合を見てショックを受けた母親が尋ねた。 「リングの上の怖ろしいお前と、私の知っている優しいお前と、どっちが本当のお前なの?」 紹介者によれば、そのとき、ブラッシーはこう答えたらしい。 「どちらも本当の私ではない」 鳥肌が立った。なんて凄い答なんだろう。この「本当の私」は前掲の「本当の愛」などとはまったく次元が違っている。 「悪役レスラーは商売で、リングを降りた僕が本当の僕だよ」とでも答えておけば角は立たないだろう。しかし、突き詰めて考えれば、やはりそんな筈はないのだ。 自然な愛情に満ちた母の問いかけには真実に関する認識の甘さが含まれており、ブラッシーはその受容を潔癖に拒否した。非常なまでの誠実さに感動する。しかも、彼の答は予測可能な「どちらも本当の私だ」ですらなかったのだ。かっこいい。かっこいいよ、ブラッシー。 だが、と私は思う。みえない真実に対する彼の姿勢はいったい何を意味していたのだろう。母親を悲しませてまで守られる誠実さは、例えば表現というものの本質に関わる要素ではないか。テレビの視聴者を何人もショック死させたと伝えられる銀髪鬼は、ひとりの表現者だったに違いない。> 【貼り紙の声】 <(前略) どこに貼られているか、の力を感じた例として思い出すのは、実家近くの電柱に今も残されているこんな貼り紙だ。 ひまわり会(創業55年) 中高年パートナー紹介。 お茶飲み友達。 カラオケ仲間。 結婚相手。 内容はわかるし、貼り紙の「場所」としての電柱も珍しくないのだが、問題は「位置」だ。地面すれすれのひどく低いところに貼られているのである。わざわざここに貼るのは大変じゃないかなあ、とか、普通は目の高さを基準にしないだろうか、とか、ひまわりなのに、とか、いろいろ考えつつ、視線が吸い寄せられる。その極端な低さによって、逆に目だっているのだ。 ひょっとして、と思う。この「位置」自体が特別なメッセージなんじゃないか。ひまわり会に行くと、小さな小さな宇宙人が現れる。その姿をみた瞬間、私の目から涙が溢れ出す。未来への扉はここにあったんですね。いいのかい。はい、いいんです。さようなら地球。それから、宇宙船に乗って暗黒の次元を突き進みながら、私たちは一緒にお茶を飲んでカラオケをして結婚をするのだ。> 【名言集・2】 <会社の休憩時間に、後輩の女子社員がプリンを食べていた。まるで宝石のように大事そうに掬って(宝石は掬えないが)食べている(宝石は食べないが)ので、思わず、それ、おいしいの? と尋ねたところ、こんな返事が返って来た。 「このプリンを食べたら、今まで食べたプリンなんか全部忘れちゃいますよ」 その目がきらきらと輝いている。なんでも新発売の超強力なプリンとのことだった。 例えば、「今までの男のことなんか全部忘れさせてやる」とか、そういうセリフには、どうも信頼性がないのだが、これがプリンとなると、不思議なことにぐっと凄みが出てくる。私は彼女の手元のプリンをみた。薄黄色の、ふるふるした、みた目はごく普通のプリンだ。 でも、これをひと口食べると今まで食べたプリンを全部忘れちゃうんだな、と思って怖ろしくなる。今までのプリンたちも、それはそれなりにおいしかったのに……。だが、そんな感傷も「それ」をひと口食べるまでのことなのだろう。人の心は残酷なもの。彼女の目の輝きがそう告げていた。 (中略) 友達の妹が高校生のときの話である。内気で口下手なムツミが兄の紹介でデートをすることになった。目印のダッフルコートを着て相手の男の子がやって来た。お、なんかいい感じ、と嬉しく思ったのも束の間、実はこの相手がまた無口で大人しいタイプなのだった。 向かい合って座り、最初の挨拶を交わした後は、ふたりとも言葉が出てこない。 「……」 「……」 「……………」 「………」 「……………………………」 「…」 長く複雑な沈黙に堪えかねたムツミは、思い切って口を開いた。 ムツミは語った。学校のこと部活のこと、自分の名前の由来から将来の夢、お祖母ちゃんの信じている神様の話を経由して愛犬のドッグフードの種類まで、相手の相づちも待たずに一息に語り続けた。 息が切れるまで喋ったムツミは、テーブルの水を飲み干して、ふうと大きく息を吐き、それからきっぱりとこう云った。 「さあ、今度はあんたの番よ」> さあて、いかがだっただろうか(~_~)。 言葉に対する穂村さんの感じ方の繊細さにはいつも感心してしまう。彼独特の妄想もあって面白いので、お薦めの本である。 <今日のお薦め本> 『絶叫委員会』 穂村 弘 著、筑摩書房 刊、1470円、10.05.10. 第一刷発行 <後記>本書の最後にある【名言集・3】がとても面白いのですが、ちょっと微妙な話で、恥ずかしくて引用できませんでした(~_~)。 是非、本書を買うか、図書館で借りて読んでみてください(^^ゞ。 今日(21日)は関東地方は晴れの一日で、暑くなるようです。体がついていけるか、心配です(^^ゞ。 |
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『もうおうちへかえりましょう』
前回の『絶叫委員会』に続いて、穂村 弘さんのエッセイ集の紹介である。 本書『もうおうちへかえりましょう』は、2004年に小学館から刊行されたものが文庫化されたもので、著者の2冊目のエッセイ集ということである。 ...続きを見る |
団塊バカ親父の散歩話 2010/08/15 16:35 |
『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
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団塊バカ親父の散歩話 2014/02/19 23:19 |
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作家の川上 未映子さんと、歌人の穂村 弘さんの対談集『たましいのふたりごと』を紹介してみる。 ...続きを見る |
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『鳥肌が』
〔昨日の夕方の上に伸びていく積乱雲〕 ...続きを見る |
団塊バカ親父の散歩話 2016/08/02 22:04 |
『野良猫を尊敬した日』
〔今日の落日直前の夕日〕 ...続きを見る |
団塊バカ親父の散歩話 2017/04/04 23:43 |
内 容 | ニックネーム/日時 |
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友人知人に「すっかりメキシコ人ね」 |
Maria 2010/05/21 02:24 |
昔、友人宅に遊びに行ったら、奥さんが赤ん坊を抱えて出てきて「はい、パパですよ。抱っこしてもらいましょうね。」と言って赤ん坊を渡されたときは、一瞬、凍りついた。 |
ねこのひげ 2010/05/21 05:33 |
同期会で、女同士「変わらないわね」と言い合い笑ってる、外見は変わっても声、性格、変わらないわねと、。高度な会話。其れを聞いた男達『そんなわけ無いだろ」とあきれてる。君たち次元が低いのだ。 |
トド 2010/05/21 07:28 |
何歳にみえる? |
のんびり猫 2010/05/21 07:52 |
誉めているつもりが余計な一言入る(^^) |
さらばぁば♪ 2010/05/21 08:26 |
☆ Mariaさん、なるほどですが、そう言う気持ちもわからないではありません。30年メキシコに住んでいらっしゃると、だいぶ雰囲気が違ってくるでしょうから、メキシコのことを知らない普通の日本人にとっては、その違いを「すっかりメキシコ人ね」と言うしかないのかもしれません。 |
遊哉 2010/05/21 11:38 |
☆ ねこのひげ さん、アハハ、そのご友人の奥さん、ユーモアのある愉快な方ですね(~_~)。 |
遊哉 2010/05/21 11:54 |
☆ トドさん、“高度な会話”ですか〜(~_~)。 |
遊哉 2010/05/21 12:03 |
☆ のんびり猫さん、バカ親父は言われたことがありませんが、返事に困りますよねえ。 |
遊哉 2010/05/21 12:20 |
☆ さらばぁば♪さん、言うほうとしては気を使っているんでしょうが、余計な一言になっちゃうことがあるでしょうね(^^ゞ。 |
遊哉 2010/05/21 12:33 |
↑本を選ぶのは遊哉さんの感覚に頼っているpatyokoで〜すm(__)m |
patyoko 2010/05/21 18:10 |
豚が踊ってるだけならともかく、ひどいのになると豚が胸にナプキンを挟んでナイフとフォークを持って肉を食べてる看板とかありますよね。共食いじゃん、って思いますが(~_~;) |
キーブー 2010/05/21 20:44 |
☆ patyokoさん、バカ親父の感覚に頼ってもらえるなんて嬉しいですが、感覚の違うものもあると思うので、ビビッときたものを読んでみてください(~_~)。 |
遊哉 2010/05/21 21:11 |
☆ キーブーさん、ありますね、そういうの。豚そのものはかわいいだけに、よけいに違和感を感じます。“共食いじゃん!”って突っ込みたくなりますね(^^ゞ。 |
遊哉 2010/05/21 21:23 |
魚のような笑顔・・・に痺れました。 |
キョン 2010/05/22 11:40 |
☆ キョンさん、魚のような笑顔(魚っぽい笑顔)って、どういう笑顔だろうね(~_~)。 |
遊哉 2010/05/22 12:28 |
言ってしまった後で、ハッとする。 |
moumou.h53 2010/05/23 18:01 |
☆ moumou.h53さん、同じような経験はありますよ(~_~)。言ったとたんに気がつくんですけどね、後の祭りですね(^^ゞ。黙り込まれるとコワいですよね。うちの場合は、すぐに反撃が来ますけど(~_~)。 |
遊哉 2010/05/23 21:58 |
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